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『ひらがな日本美術史』橋本治

橋本治の大きな仕事の一つに、『ひらがな日本美術史』があります。これは、一人の作家の目を通して日本美術の通史を書く壮大な試みで、『芸術新潮』誌に1993年から2005年まで連載されました。それが加筆・改稿され、全7巻の本になっています。

第1巻である『ひらがな日本美術史』の範囲は、縄文時代の火炎土器、弥生時代の銅鐸、古墳時代の埴輪から、鎌倉時代の運慶のあたりまで。

美術ライターの橋本麻里さんによると、橋本治は、体験的に感覚的に書いてはいるけれども、実は美術的にアカデミックな訓練をある程度受けていたし、学術的な知見を踏まえてこれを書いている(その根拠については、ほぼ日の學校「橋本治をリシャッフルする。」の橋本麻里さんの講義に詳しい)。

では、“体験的”あるいは“感覚的”とはどういうことだろう?
かつてイラストレイターとして仕事をしていた橋本治は、その昔、「絵を描けるようになりたい」と思い、ひたすら見て描いて、吸収していた独学の期間がある。そこで培った観察眼と、実際に自分で絵を描いていた経験とがあるからこそ書ける文章が、ここには随所に現れる。
“体験的”あるいは“感覚的”とは、橋本治が作品を見て、その場で直感的に発見したことから論じている(ように見える)ことを指すと思われるが、一方で、知識や経験がないとそもそもその発見には至らない、と素人の私は思う。

「描線の太さを均一にするということは、その間、息をしないということだ。息をすれば、筆を持った腕の先がぶれる。ぶれて、線の持つ均一さが失われる。だから、こんな線の描き方は、とても神経を使って、疲れる。ある意味でこれは、描き手の人間性を殺すことを要求するような描き方だ。書法で言えば、楷書に当たるようなものだろう。」
「『個性』というものは、窮屈な法則性から自由になってしまったもの、そこから逃げ出してしまったものだという風に、うっかりすると考えられてしまうが、しかしきちんと法則性に合致している、『規矩に適った個性』というものだってある。つまりそれは、『それでも私は人間である』と言うような個性だ。《法隆寺金堂旧壁画》を構成する『鉄線描』は、そういう『個性』の持ち主達によって描かれたものだと、私は思う。」
「余分な自己主張を排除して、均一の太さを維持して、しかものびのびとしている─こういう豊かな描線を引くことが出来る人間は、ただ敬虔な人間だけである。たとえ自分は貧しくとも、豊かさというものを信じていることが出来る─それがなければ、こういう線を引くことは出来ない。」
「自分達の前で閉ざされる扉の内部に絵を描く作業─しかもそれが、特定の誰かにほめられるような仕事でもない。そこにこれだけの“豊か”を投入出来る人間達というのは、なんなのだろう?
彼等には、見返りを期待するような“自分”がない。その“自分”は、『どこか遠くの先で、その白壁の上に描かれた豊麗な世界と一致するはず』という確信だけを残して、さっさと投げ出されている。そういう無私だけが、こういう作品を描かせるのだと思うと、私は、そういう日本人が、とっても悪くはない生き物だと思う。」

橋本治『ひらがな日本美術史』

橋本治の文章を通すと、作者の体温や息遣いまでもが感じられるようだ。それがたとえ7世紀や8世紀の作品であっても。引用した文章は法隆寺金堂旧壁画に関するもので、描線がブレのない均一の太さで描き続けられているという発見から、描いた人間の神々しいまでの崇高さが表現されている。…が、そこで終わらないのが橋本治である。
法隆寺金堂の天井板には大量の落書きが隠されていて、次の章でそれをしっかりと扱うからである。格子状に組まれた板の、人の目に触れる部分には蓮の花が描かれ、板に隠れて見えない部分には、現代の中学生が授業に飽きて教科書の隅に描くような“自由すぎる”落書きがあった。

「筆を持たされて、その筆を『目的に合致したように動かせ』と命じられても、しかし人間である以上、もう自分が持っている『自由』だけは、隠しようがない。
あのように美しい、あのように敬虔で見事な浄土図が壁画となって残されていた法隆寺金堂の天井板に、しかしそういう敬虔とはまったく別種の『自由』が隠されていたということは、素晴らしいことである。つまり、『敬虔であること』を当然の自然としていた彼等は、一方でまた、それとは無関係に、自由であるような『動き』と『欲望』を、当然のものとして確保していたのである。
そういうことが分かるから、私はこの大昔の落書が、大好きだ。
『人間はいつでも落書をするような、自由でふてぶてしい生き物である』ということを、この大昔の“歴史的資料”は教えてくれる。」

橋本治『ひらがな日本美術史』

古典というものは不可侵に美しく敷居が高いと思い込んでいた私にとって、実はこの『ひらがな日本美術史』も近づきにくいものでした。でも、この法隆寺金堂旧壁画から法隆寺金堂天井板落書の流れでこのシリーズの魅力に一気に引き込まれていきました。古典作品が神聖なものとして扱われていると、それを作った人間に対しても同じように考えてしまいがちですが、人間である以上、時にこの世のものとは思えないような美しい美術作品を作ることもできれば、時に卑俗な落書きを止めることができないという性質もあわせて持っているもので、それは千年の時を越えても変わらないということをこの本を読みながら感じ、安心もしたのです。

橋本治は絵を自らの職業としていた時期もありました。しかし、この本を専門家のようには書きませんでした。

「一体、日本美術の専門家でもなんでもないこの私が、どうして『ひらがな日本美術史』などというタイトルの文章を『芸術新潮』などという雑誌に連載が出来るのか?それがこうして一冊の本になるのか?なんでまた、こうも明快にすべてを説明してしまおうとするのか?その“謎”のようなものの正体を時々考える。なんでそれをして、それが出来るのか?その答は、『私が中学生だったから』としか言えない。
思考とか苦悩とか高級というようなこととはまったく無縁にしか思えない中学生だって、色々と感じる。“感じる”ということは、しかし“感じる”というだけのことで、あまり言葉にはならない。疑問を感じても、それが言葉にならなければ、“疑問”にはならないし、“答”とも出会いにくい。感じたことは、だから感じたままで消えて行く。しかし、感じるということは、そのことに対する答を与えられたがっていることでもある。人は、それをたやすく忘れてしまうけれども、因果なことに、この私は、そういうことをしつこく我が身に残している。つまり私は、“分かる”ということがどういうことかを知っているということである。私にとって“分かる”ということは、あの、言葉を持たないままポカンと口を開けていた自分に、『お前の感じたことはこういうことだろう?』と、説明を与えることだからである。」

橋本治『ひらがな日本美術史』

学校で学ぶ日本美術は“暗記すべき知識”になってしまう。出会いが“お勉強”だったので、もう初めからから日本美術は遠かった。中学生でも知っていること、感じることをきっかけに美術作品に触れてもいいのだと、私はこの本を通して知ることができました。
常に俯瞰的に物事の全体を見ようとしていた橋本治は、日本美術に限らず、そうやってさまざまなことを書いて遺していってくれたように思います。

「中学生の男の子にとっては、こう言ってもらった方が分かりやすい─『これはね、君の知っているような、“悲しさ”とか“寂しさ”を描いたものなんだよ』と。
“悲しさ”とか“寂しさ”を『美しい』と思うのは、まだ中学生には無理だ。しかし、中学生だって、ちゃんと『悲しさ』とか『寂しさ』を知っている。そう教えてもらえば、素直にそれを、『すごい』と思える人間は、いくらでもいるだろうにと思うのだが──。」

橋本治『ひらがな日本美術史』


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