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人生と愛の関係

「自分たちのことを『愛し合う二人』と規定出来てしまう二人は、まだ人生の中にいない。『無人島のど真ん中にエアコンのきいた寝室だけがあって、生活不安を感じないでいられる』というような不思議な状態である。いくら不思議であってもかまわない。そもそも愛というものが、人生にはそうそうない不思議な状態だからである。
人生とは、たとえばそこに『空腹』の形を取ってやって来る、異物なのである。人生という異物が増えれば増えるほど、『愛』というものは片隅に押しやられる。押しやられて『愛が冷めた』と思うのは、人生の扱い方を知らない人間だけである。
『無人島のど真ん中にエアコンのきいた寝室だけがある』という状態がそもそも異常なのだから、その異常さが片隅に押しやられたって、異常が尋常に戻るだけなのだ。
『愛する二人』が『人生を共有するパートナー』になるためには、『無人島のど真ん中にあるエアコンのきいた寝室』というへんなものを、まずぶっ壊すことから始めなければならない。それがつまりは、『愛を片隅に押しやる』である。愛が押しやられた後には、人生という異物がやって来る。
それを二人で処理してる内に、『人生のパートナー』という実感も生まれるのである。結婚が『愛のゴール』であり『人生のスタート』だというのは、そういうわけで、なんか今回は、そのまんま結婚式の祝辞に使えそうな話になってしまったな、と思う私である。
いっそ、もう少し祝辞にしてしまえ──。

人生の片隅にあっても、二人の愛は愛なのである。愛がすべてではない。愛は、愛する二人が人生をやりこなして行くための基本となる、力なのである。今は『愛し合う二人』でしかない人生に未熟な二人が、この先に力を合わせ、なにとぞ『人生のパートナー』となるべき道を歩まれることを願うものであります─という祝辞は、まァ、そんなにあるものだとも思えないが、あってしかるべきものではある。」
──橋本治『失楽園の向こう側』




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