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真実とは、ただ胸の内に隠されてあるばかりのこと─橋本治『マルメロ草紙』

マルメロとは、果樹の一種で“セイヨウカリン”ともいう。渋みが強く生食には向かず、ジャムや酒に加工される。

マルメロをね、輪切りにしますの。艶々と輝いて熟れているようなマルメロの切り口は、真っ白なの。固くてね。それをそのまま口に入れると、渋いの。匂いだけ。甘くて美しくて優しいのは匂いだけ。お砂糖と一緒に煮こんで、マルメロジャム。田舎の人は平気で食べるわ─匂いに騙されてね。あんなもののどこがおいしいのかしら。渋いだけ。固くて。熟れた盛りの果物があんなに渋くて固いなんて、なんだかとても可哀想

それを言うのは女優を目指すナディーヌ。

梨のような形をして、でもマルメロは、梨のように甘くはないの。柔らかくもないの。ただ白くて固くて、リキュールの中に浸けられて、そのまま一生を終わるの

私はマルメロなんて大ッ嫌い!一生リキュールの中で暮らすんだわ!味もなんにもなくて、ただ固いままのマルメロが、リキュールの中で飴色になって、そうして萎れていくんだわ

その言葉は、叔母アンリエットのこんな言葉を受けて発せられたもの。

マルメロの実からは天使の匂いがするのだと思いますの。だってマルメロの実は、白い天使の産毛に包まれているようじゃございませんの。柔らかい綿毛に包まれたマルメロの実を手に持ちましてね、真新しいリネンで拭き取りますの。白い綿毛が取れて、中から艶々したマルメロの黄色い肌が現れますの。なんという幸福な瞬間なんでしょう。固い艶やかな面が、宝玉のように輝いて─

これを言う叔母は、女優を目指すナディーヌにこんなことを言う存在でもあります..

あなたは胸を張って“職業”などというわけの分からない言葉をお口になさるけれど、職業を持つ女にろくな女はいない。それが常識です。女にとっての“職業”などというものは、ただいかがわしいだけのものでしかなかった。それが、名家と言われる人達の常識ですよ。女というものは、慎ましく家にいて、よいご縁にでも恵まれれば、楚々としてお嫁に行く。よいご縁に恵まれなければ、倹しく美しく身を持して、神の御許に召される日を待つ。それが女の運命

現代的にアレンジされた若草物語「ストーリー・オブ・マイ・ライフ╱わたしの若草物語」を思い出しました。あの映画での叔母役のメリル・ストリープは言葉以外の意味を感じさせる演技に深みがあってよかった。彼女の表情もまた、この本の一説を思わせます。

真実とは、ただ胸の内に隠されてあるばかりのこと。隠されてしまわれて、そして、それがそのまま見えなくなってしまわなければよろしいわね。

女の真実は、ただ胸の奥にしまい隠されるもの─それが、遠い昔に終わったことでなければよろしいわね。

この本は2013年12月、限定150部、定価3万5千円で発売されました。

写真で伝わると思いますが、文庫と比べるとかなり大判。片手で読むことは不可能です。
オールカラーで200ページ以上。背景はただの白い紙ではなくて、何パターンもの色の布を写した写真、それに橋本治さんの文章と、岡田嘉夫さんの豪華な絵が重なる。贅を尽くしたとはこのことか、と思うほどの、眺めるだけでも魅入ってしまう大人の絵本。



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