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利倉玲奈になった榊原玲奈と考える、夫婦別姓

「ほらさ、男女別姓ってあるでしょ?結婚したら苗字が変わるの。“どうして女だけが苗字が変わるんだ、不合理だ”っていうの。ちょっと問題になってんだけど、私なんかどうでもいいと思うのよね。私なんかさ、結婚して苗字が変わっちゃったら、今までのことなんてみんなチャラになっちゃうからトクじゃないかって思うのね」
「でもね、そんなこと言うと、みんな“不真面目だ”って怒るの」
(「どうして?」)
「知らない。女がそれまで積み上げて来た自分というものが結婚することによって否定されてしまうのは不合理だっていうの。だったらそんな相手と結婚しなきゃいいと思うんだァ」
「そう言うとさァ、“あなたは分かってない”よ。そんなに自分に未練があるんなら、永遠に一人でいればいいと思うんだァ。私なんかさァ、籍なんか入ってなくたって、苗字が一緒の方が夫婦としてはリアリティーあるなって思っちゃう方だから」
「中国なんて、男女別姓だっていうけど、中国がどれほど民主的かっていうのね」
「私なんかさ、問題があるんだったら、結婚して自動的に男の苗字になることに平然としてるバカな男と結婚する女の方だと思うのよね、よく分かんないけど。結婚して苗字変えたくないって女が言うんならさ、男が変えればいい訳でしょ?そんな我の強い女と男が結婚したがるんだったら、絶対にその男の方が女みたいなんだからさ、さっさと苗字変えればいいと思うんだ」
「結局、男が苗字変えられないとかっていうのは、マザコンとか乳離れしてないとか、色々あると思うんだ。だってさァ、男だって、結婚して今までの自分がチャラになっちゃうんだったらいいなァとか、そういう風に思ってる人って一杯いると思うんだ」
「男と女が別姓のまんまでいたいっていうんならさ、そんなんだったら籍入れないで同棲のまんまでいればいいじゃない?そうするとさ、必ず“子供が私生児扱いになる”って言うのね」
「そんなさァ、私生児を差別するような法律とか生活習慣そのまんまにしといて、全部苗字に責任転嫁するのなんて無責任だと思うんだ」
「でもさ、そう言うと、“あなたは幸福な結婚生活を営んでるから、私生児を産んだ女の胸の痛みは分からない”なんて言うんだ。私なんか頭来たけど、その時妊娠なんかしてなかったから、今なんか妊娠してんだからさ、一時的に離婚して、私生児にしてから産んでやろうかとか思うのね」
「そんでね、“あなたは結婚前になんて言ったの?”って、そこら辺のオバサンが言う訳よ。“榊原ですけど”って言うとさ、“それでは、あなたは、あなたの中の榊原玲奈という人格が永遠に葬り去られてしまうことに、なんの傷みも感じなかった訳?”って言うのね。私、別にすぐ籍入れた訳でもないしさ、なんとなくただこっち来て、榊原のまんま利倉の家にいたでしょ。だから傷みもへったくれもなくてさ、“別に”って言ったら、“ホントにもう鈍感な土建屋の女”“田中角栄の血筋”って、そういう顔されんのね」
「だから私もそうなのかなァとか思って。私別に、“榊原玲奈”じゃなくたって不都合なかったから、“そうかなァ、鈍感なのかなァ”とか思っててさ」
(「でも、どうなったって、やっぱり、榊原さんは榊原さんだと思うわよ」)
「そう言ってくれると嬉しい。私“きっと榊原玲奈ってよく分かんないまんまどっかいっちゃったんだ”って、そう思ってたの。そしたらズーッと醒井さんが私のこと“榊原さん、榊原さん”て言ってくれるから、“あ、そっかァ、私のこと榊原玲奈って思っててくれる人がここにいた”とか思って、嬉しかったの....。私だって、やっぱり、榊原だったんだよ。チャラになったって、やっぱり、“あんたが榊原玲奈だったことになんの意味もなかったことを認めなさい”なんて言われ方するのなんていやじゃない?」
「だからさァ、私、“利倉玲奈”って名前で選挙に出ると、まるで狐の皮かぶった土建屋が利権漁りに行くみたいで、“自分てどこ行っちゃったんだろう”って、暗くなってたの。」
(中略)
「私、自分てどっか行っちゃったのかと思ったけど、私ってちゃんといて、それがたまたま“利倉玲奈”って名前で選挙やってるとか思ったら、すごく気楽になった」
「落っこったって、別に私が落ちるんじゃなくて、“利倉玲奈”って名前が落っこちるだけなんだもん」
「私、多分、選挙出るよ」
「選挙カーの上で腹膨らませてやる。どうせ私なんか、自分でもなんだかよく分かんないもんなんだから」
「凉子さんが言ったみたいにメチャクチャやるの。だって、女って妊娠すんだもんね。“妊娠してなにが悪い”って、見せてやんだ」

橋本治『雨の温州蜜柑姫』(1990)


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