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それでも生きていくことを描いた、『硫黄島からの手紙』

『硫黄島からの手紙』では、日本軍に焦点が絞られ、その組織の内部の様子が克明に描き出されている。

 激戦区と言われた硫黄島は、アメリカ軍は当初5日間での奪取の計画を立てていたものの、戦争は長期化し1カ月以上にも渡る戦いとなった。また、アメリカ軍の死者の数が日本軍の数を上回るという歴史的な戦争でもあった。そんな硫黄島での戦いにおいて、現場の最前線にいた兵士たちの心情や過去、戦いの様子、そして作戦を立て実行するまでの一連の様子が丁寧に描かれている。

 この映画の中で主題とも言えるほど中心となっている価値観は、天皇崇拝である。映画の場面においても、この戦いにおいて主導者となっている栗林閣下(渡辺謙)は、「最後の一人まで戦い抜いて生き残る」ことを目標に掲げているが一部の軍人たちの反発を呼ぶ。

 上官らは、戦局が追い詰められたときに玉砕を覚悟して自決しないのは腰抜けであるからだとし、戦局が追い詰められたときに閣下の命令を破って兵士たちに自決の命令を下す。「天皇陛下万歳」といって次々に爆弾を胸に自決していく兵士たちの姿はあまりにも無惨であり、それぞれに様々な事情と思いを抱えながらもその場では従わなくてはならないという絶対的な思想と組織内での関係性がある。

 いかなる理不尽も耐えなければならない状況において、兵士たちの心の拠り所となり、行動を促す大きな存在としているのが天皇だ。しかし、二宮和也演じる西郷は、この自決のシーンにおいて栗林がそのような命令を出していないことを知っているという事もあり逃避する。その際に、西郷の心が揺れ動いている様子が見て取れる。目の前で戦友たちが「天皇陛下万歳」と言って自ら死んでいく様子を目の当たりにして、戦友たちのように行動をしなければならないことを分かってはいながらも、「こうではない」という思いが押し寄せているように伺える。

 それは、真に天皇の為になるのは、今はまだ生きているのにむやみに死んで、ある意味命を無駄にする事ではないとではないという思いだ。彼の中で天皇という存在は、日本軍の兵士として戦う上で戦う理由の中心にはいるものの、その存在の為に命をむやみに投げ出すことが絶対的に正しいとは考えておらず、心の底では違和感を感じている部分があるように思える。そうした彼の思いや考えは、心理的にではなく合理的に作戦を立て、少しでも生き残れるようにと考える栗林と一致し共鳴する部分がある。

 栗林は、日本軍人として天皇の為という根幹的な姿勢は崩さないものの、軍の内部にはびこる、天皇の為という大義を以て自決や玉砕を強制する非合理的な考えには反発している。彼は戦前にアメリカに行くなど国際的に活躍していた身であり、アメリカ式の合理的且つクリティカルに判断していく思考力を持っており、敵であるアメリカのこともよく知っている。そして栗林と同じく海外で同じく海外での生活の経験がある元オリンピック選手もまた、アメリカについてよく知っており、単にアメリカ人をひ弱で軟弱な敵として見る事をせず、一人の人間同士として向き合おうとする姿勢を崩さない。それは彼らが、敵とされるアメリカ人が日本国内で言われているような像とはかけ離れている事を知っており、またアメリカ人もまた自分たちと同じような立場に置かれたただの人間であるということを理解しているからである。

 しかし、そうしたグローバルな経験と考えを持っていても放棄することがないのが、天皇崇拝思想である。この映画を通していかにこの価値観にこの価値観が、当時の日本軍人や日本人とって大切なものでありアイデンティティともなっていたかが分かる。当時はこの考えが「当たり前」であり、疑うことも思いつかないほどに「普遍的」な事であると信じられていたのである。現代を生きる我々からはこうした思想は信じ難い側面があり、何故当時の人々はその価値観に従う事が出来たのか理解し難い部分がある部分があるが、当時としては天皇崇拝ということ自体が、彼らの生きる社会の根本にあり叩き込まれている為に、細胞レベルにまでこの考えが沁み込まされていたのではないだろうか。

 そして、そうした社会的な面と同時にあるのが、戦争という圧倒的な理不尽状態において、思想を持つことで自らの行動に意味付けすることができるということである。ふつうの人であれば、日常で人を殺す事はなく、それらは社会の中で悪である。しかし、戦争状態においてはそれが逆転し、殺せば殺す程良いとされる。敵であろうが、人を殺すことに対して抵抗感とやるせなさを多くの人が感じるだろう。そうした行為を正当化し、自分の行動が正しいものであると信じるなにか大きなものが必要なのだ。それは、現在でもイスラム過激派組織が「神は偉大なり」と言って、イスラム教の唯一神であるアッラーを崇めて死んでいく様にも通じるものがある。

 つまり人間は、否定したり反論する事が出来ない、あるいはそうする事が難しい大きな何物かを軸に据えることで、思想の絶対性を図ろうとするのであり、そうしたものは否定しづらく壊す事の難しいものであるからこそ、蔓延っていくという側面があるのだ。そうした思想を元に人間のエゴからくる、行き過ぎた規制や法則が生まれてくるからこそ、思想は益々崩し難いものとなり、状況は悪化の一途を辿っていくのではなかろうか。

 この映画において製作者は、天皇万歳と叫んで死んでいく日本軍を描を描いて単に天皇崇拝を否定的な見方で捉えるのではなく、そうせざるを得なくなっていった当時の環境と、戦争という極限状態における人間存在の精神的な在り方や精神の拠り所について深く掘り下げようとしていた面がある。死が隣合わせであり、筆舌尽くし難い景色が繰り広げられる戦場において、国籍や価値観の差異、あるいは時代を問わず通じるものがある。それは、命の危機にさらされている状況下においても死ぬ瞬間までは生きているということであり、それでも生きる為に生き延びようとして生き続ける人間の存在そのものである。

『硫黄島からの手紙』では、思想も行動も抑圧され自ら死ぬ事さえ善になるという環境の中で、それでも生きていく人間の姿を描写しているのではないだろうか。

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クリント・イーストウッド,『硫黄島からの手紙』,渡辺謙,二宮和也出演,2006年公開

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