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ビー玉の眼

がらんどうの眼。からっぽの眼。すっからかんの眼。こんなんじゃなにも見えない。危なくて走れない。腑抜けている時間など一秒もないというのに。

別に何があったという訳ではない。私には2匹のかわいい猫がおり、「ギャルバン!」で頭がぱんぱんだった日々がひとまずおわり、出演する作品の撮影やリハでありがたい事に充実しており、友達に恵まれ、家族とも連絡を取り合い、身体は健康。それなりにしっかりとしあわせ。

たくさんの味方がいる。たくさんの敵は気にしてない。敵と呼べるのは自分だけ。それはずっとそう。嫌われたら嫌いになるし、優しくない人には優しくできないけど、他人は倒すべき敵じゃない。

やっかいなのは私に優しくない味方。味方だからといって甘やかされたいわけじゃないし褒められたいわけじゃない。ただ、優しくはいてほしい。血を流してたら絆創膏を貼ってほしい。

味方だと思ってる人が優しくないのは、敵に同じことをされるより何倍も傷つく。怒ってんじゃない。さみしくてかなしい。

そうかあ、私かなしいのか。かなしいのかもしれない。かなしくなってきた。かなしいなーかなしいなー。こうゆう時は涙が出ない。水なんて出ない。どんどん乾いてゆくだけ。なにかで潤わせないと、なにかで埋めないと。なにかってなんだろう。

人に優しくされた時、うれしい。私や私のすることをすきだと言ってくれる時、とてもうれしい。生きててよかったなあ、生きていけるなあって思う。こうゆう時は涙出る。心が潤うからかな。

「今何してるかなあ」って思って「今何してる?」って聞く、もしくは聞きたくなる相手って、たぶんむちゃくちゃすきな人。すきな人との会話はたのしい。どうでもいいこともどうでもよくないことも。聞くのも聞いてもらうのもどちらもたのしい。話したい、と思うことこそが、そもそもすきだから思うこと。

日常のふとした時に「今何してるかなぁ」と顔が思い浮かぶこと、泣いてないことや健康を願うこと、出会えてうれしいこと、抱きしめて眠るのと同じくらい。会話は愛情だ。

いいこともしてないけど悪いこともしてない。一生懸命生きてるだけ。の、つもり。みんなそうでしょ。私だってそう。なのに変なの。

私のことを大切じゃない人に割く時間がなくなってきている。大変悲しいことに、言葉は無くてもなんとなく分かるようになってしまった。相手が自分をどう思っているか。大変悲しいことに、悲しい結果でも、悲しいと思わなくなった。ただ残念で、少しさみしくなるだけで。

人間は分かり合えない。分かり合えないからそばにいる。分かりたくないなら近くにいちゃダメなんだ。大切じゃないなら近くに来ないで。味方だと思ってしまうから。

受け取り方次第で何もかも変わるなら、やることを変えても意味がない。自分にできること、したいこと、がんばるよ。厳しげな山のてっぺんには虎を連れてくよ。猿もむっちゃおる。なんや、全然さみしくないやん。

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