一房の葡萄 二次創作

 これは私が教師になる前の話です。
 いよいよ女子中学校でも勉強のほうが中止されて、銃の部品の組み立て作業のほうの時間配分が多くなってきました。大人や祖母はそっと押し黙っておりましたが、戦況の向きが悪いということは学生の私にも察しがつきました。私も大人の真似をして黙っておりましたが、食いしん坊で配給の米では腹は足りず、秋のやや肌寒くなってきた夜に布団をかぶって膝を抱え、眠れずにおりますと、とある記憶が瞼の裏に蘇ってきました。数年前、学校の帰りに石版を背負って帰宅しようとした際に、葡萄が二軒先の曲がり角にある邸宅の庭になっているのを見つけました。そのときは色のよい葡萄だなあと眺めていただけですが、空腹に耐えているときに、その光景を思い出すのは拷問のようでした。
 私は軍人の父と兄を持ち、病気がちな母と家で二人で暮らしておりました。食糧と着物を交換してもらうなど、隣近所と支えあって暮らしていました。この時世に近所の家のものに手を出せば、ひどく叱責されるだけで済まず、盗人以上の汚名を着せられるのは明白でした。
 それでもぐうぐうと私の腹は鳴ります。私の頭に浮かぶのは、あのときの艶やかな葡萄だけ。口に含んだときの、甘酸っぱいあの味を一粒だけ。一粒だけでいいから。
 翌日どうしても我慢しきれなくなった私は、学校が終わった後に邸宅の前を通り過ぎました。そこには昨年見たときと同じように、垣根を越えて濃い色の葡萄が実っていました。私はごくりと唾を飲み込みました。忍び寄るなにかが、視界の端に見えた気がして、あたりをさっと見回しましたが道には人はおりません。近所で飼っている犬も、日の当たる場所でのんびりしているようでした。不用心にも葡萄は私が背伸びをすれば届きそうなところにあります。もう一度、私はあたりを見回して、踵をあげそうになりました。
「さっきから、そこに誰かいる?」
 垣根を越えてきた声に、私にあやうく悲鳴をあげそうになりました。邸宅には女中さんと奥様と、前線病院から帰ってきたご長男が療養なさっているという話でした。いま私にお声掛けをされた方は、その嫡男の方に違いありません。あちらとこちらは垣根が邪魔で見通しが悪いので、素知らぬふりをして通り過ぎれば済んだかもしれないのに、すっかり動揺してしまって足が動きません。砂利を踏む不自然なリズムの、おそらくは杖か義足かの音がして、その方が近づいてくるのを黙って待っていました。
 その方は門のところまで来ると、白い手で招きました。
「こちらへおいで、葡萄を見ていただろう」
「あ、あの……ご、ごめんなさい。学校で写生大会があって、それで、いちばん上手い方が葡萄の絵を描いていたのです。えっと写生大会でも、生徒同士の同好会のようなものでして、正式なものじゃないのですが、あの、それだけなのです。不審に思わせて、申し訳ありません。もう帰ります」
 私の口から出たのは、まったくの嘘ではありませんが、真実でもありませんでした。言っている最中、かぁっと羞恥心がのぼせ上がってきて、もう帰りますと言ったときには頭がふらふらとしていました。なんてことをしようとしていのだろうと、いまさら気が遠くなりました。
「不審だなんて、少しも。むしろ女子中学生に声をかける僕のほうが不審だろうし。ここで少し待っておいでよ」
 その穏やかな声に、私を責める色は少しもありませんでした。私はおずおずと顔をあげて、その方の柔和な顔を見ました。私はその方がなにを言わんとしているのか、捉えることができないでいました。強張った表情でその方を見つめるうちに、新しい足音が近づいてきました。
「だめですよ、その方は葡萄を盗ろうとしていましたから。二階の窓からぎりぎり見えるのです。ほんとうにぎりぎりですけれど。ね、ほら、早く家に帰りなさい。まだとってはおらんのでしょう。奥様には黙っていますから」
 女中の恰好をした若い女が顔をだしました。
 羞恥心が噎せ返るように、せりあがってきました。そのときほど汗が滲むような、耐えがたい居心地の悪さは味わったことがありません。私は顔の血の色が引いていくのを自分でも感じて、踵を返そうとしましたが、うしろからまた「待って」と叫びに近い声がして立ち止まりました。
「家の中から、あれを持ってきてほしい。ね、お嬢さん、持っていくといいよ」
 女中は渋って文句を言っていましたが、結局は言いつけどおりに邸宅に戻りました。
 戻ってきた彼女の手には一房の葡萄がありました。しかも邸宅の庭の山葡萄の兆しのある葡萄ではなくて、本物の食用の葡萄でした。こんな高価なものをおいそれと一端の市民が手にできるはずがないのです。その方は元は軍の要職か、官僚に就いていた立派な方だったのでしょう。やむを得ない理由でここにいるのだと私はそのとき思い至りました。
「いただけません」
 いよいよ恥ずかしくなって、私はそれを頂かずに立ち去ろうとしましたが、今度は声だけではなくて後ろからぺたんぺたんと不自然な足音が追ってきます。止まらざるを得ません。その方は首を振りながら、私の手に葡萄を押し付けました。
「持っておいき。ご母堂さまと一緒に召し上がるといい」
 その方の目は、意外にも潤んでいるようでした。私はその方の声がかすかに震えていることにようやく気が付きました。目があうとその方は、微笑みました。
「これはね、情けでも優しさでもない。ぼくが自分のためにやりたいことなんだ。ぼくはお嬢さんに贈り物をしたい。どうか受け取ってほしい」
 その健気な笑みに私はとうとう心を挫かれて泣きそうになりながら、「申し訳ありませんでした」と「ありがとうございます」と早口に言って走り去りました。
 家に帰って、その葡萄は、臥せがちな母と二人で摂りました。一粒ずつ、よく噛んで味わいました。葡萄は想像していたより、甘酸っぱくなくて、塩辛いものでした。


 天皇が崩御なさり、政府が敗戦を発表したり、GHQが統制を図ったりなど、国はあれからずいぶんと変わりました。食糧事情は徐々に改善されて、いまでは葡萄を手に入れることも難しくなくなりました。私は教職に就いて、横浜山の手の学校で子供たちの世話をしています。
 風の噂で私に葡萄をくれたその方は、遠方に引っ越したと聞きました。北のうんと遠くだそうです。その方がこちらに来ることはないでしょう。その方が足を不自由にしていたのは覚えているのですけれど、怪我をしていたのが左足か右足か、頭に包帯を巻いていたか否か、私の記憶も歳をとるごとに朧になっていきます。
 春に花をつけた葡萄が、夏に実を膨らませて、種子を残して枯れていきます。春になる度に新入生と卒業生が入れかわります。私が子供だった時間も、遥か後方に押しやられていきます。
 教室で緊張した面持ちで私を迎える子供たちを見ていると、ときおりその方を鮮明に思い出すことがあります。
 心からの贈り物をくださった、あの方の微笑を。
 あの方はいまなにを思っているでしょうか。

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