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氏か育ちか

私は自身の機能不全家族育ちを(ほぼ)克服した(と思いたい)ので、タイトルのようなテーマは気になる話題である。
ここで氏とは生得的な性質のことで、育ちとは受動的な環境要因のこととする。
それとは別に本人の努力という要素があるが、それができるのも生得的な能力、またはやる気になる環境があったからという意見を聞くに、この第三の要素も氏、育ちのどちらかに吸収されてしまっている。

こういった意見は、人が動こうとしない理由づけにされており、一般的には努力自体は苦しい、嫌なものな上に報われるとも限らないというマイナスイメージがついてしまっている弊害だろうと思う。

かくいう私も努力という言葉にマイナスイメージを持っている一人だった。
そして、個人的には育ちより氏の影響のほうが大きいかもしれないと思っており、努力は嫌いで意識したことがなかったにもかかわらず、まるで頑張ったかのような結果になったので、実に恥ずかしいことに、この意見が正しいとすると努力の才があったほうなのかも? などと勘違いをしていた。

努力がそんなに嫌なものなら普通はしないと思われるので、それが出来たからには何か特別な理由があったに違いない、という理屈だ。
育ちに理由がないならば、氏のほうだろう、と。
なお、才能を自然に出来ることと定義すると、嫌々やるはずの努力は才能とは言えないので、この理屈は破綻する。
嫌なものを嫌と感じない鈍感の才能とは言えるかもしれないが。

後述するが、努力は嫌なものではないか、もしくは努力は嫌なものが正しいとすれば、成果が出るまで長く続けられないのは当たり前という考えから出発したほうがよかった。
道理でナマケモノを自負する私が、努力というものを意識したことがなかったわけだ。

氏の比重が大きいと思いがちだったのは、生まれたときに既に家庭環境が良くはなかったため、環境を一変させる力のない乳幼児にとっては、そのように考えたほうが得だと思っていたからである。
つまり気に入らない環境を変えることが極めて難しいのなら、状況を改善するには自分の生得的な性質を変える必要があり、そちらのほうが簡単でなければ都合が悪いからだ。

今にして思うに、私は間違っていた。
逆に生得的な性質を変えることのほうが私にとっては困難だったために、このような考えになったからだ。
私は内向的か外向的かといえば前者の要素が強く、もともと外部環境への働きかけが得意ではない上に、自分の内的世界への関心が高いので、この苦手分野を克服する気もなかったのだ。
(苦手だったがゆえに、幼い頃に自分の中の正義と合わないと大人だろうが自分より体格の良い男子だろうがお構いなく、それはやっては駄目なことだとストレートに絡んでいくという不器用なやり方をしてまともに相手にされず失敗して諦め、自分の殻に閉じこもりますます内向性が高まることになった)
しかも私は血のつながった親に育てられたため、親からの遺伝(氏)と親が用意した環境(育ち)は分かちがたく結びついており、分けて考えるほうが不自然だった。
それでもこの間違った考えに意義があるとしたら、結果として苦手を克服するより得意を伸ばす方向に舵を切ったら何か上手くいったということである。
つまり苦手を克服しなければ死ぬというほどではない、ヌルい環境ではあったということだ(人生の途中までは)。
この親が用意した環境がどんなに自分に合わず、仕方なく従っているように思えたとしても、ヌルいからそこにいたのは自分の意思だ。
自分が死にたくなかったからで、逆らうよりずっと楽だったからだ。
正確には死にたくないというより負けたくなかった。
生に悩んでいる状態で死ぬのは敗北であり、私は負けず嫌いな気質であった。
(ただ、結果的にこの死にたくないという気持ちが生存本能によるものだとしたら、既に本能に負けていて全くの一人相撲だったということになるが)
その証拠に、あなたは過去を遡って生まれて間もなく死ぬ運命を選べますと言われたら、当時の私は喜んでそうしただろう。
負けてもいなければ、そっちのほうがずっと楽だからだ。
あるいはそもそも生まれなかった運命でも。叶わぬ願いだった。

私はのちに仏教に惹かれたのだが、そういった理由もあったのだろうと思う。
生物としての本能を超えた解脱。まさに負けなしの絶対的強者。
そういう意味では、人類すべてが弱者なんだ!(byヒイロ・ユイ)と言えるかもしれない。
(人類だけで他の生物を含まないのは、彼らが本能を意識していないと仮定すると、この意味での強者弱者は当てはまらないからである)

話がずいぶん脱線したが、結局のところ氏か育ちかは、現状に不満があって変えようとする原動力になるのならば、どちらでもいいということだ。
基本的には自分が楽なほうを選ぶといいと思う。
何故、そのほうがいいのか?
それは、楽ばかりしていよいよ状況がまずくなってきたときに、疲れていない状態にするためだ。
どうせ普段は易きに流れ、いよいよ尻に火が付いたときに慌てるのなら、そのときまで意識して力を蓄えておけ、もしくは好きに生きたから諦めの境地に至っておけ、ということである。

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