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就労支援事業所と、霧島の過去とこれから

最初にお礼

noteを初めて一週間、たくさんの方が閲覧してくださってるようで。
スキもたくさん頂けました、霧島、感激。

忙しくて、皆さんの記事をゆっくり読む時間が取れないんですけど、なるべく目を通すようにしてます。改めて、ありがとうございます。らぶ。(はぁと)


本題。


就労支援事業所について、興味を持ってくださる方が意外に多くてびっくりです。

まあ、今なら大都市だったら、あちらこちらにあるものね。
霧島のマンションのポストにもよく、広告が入ってますわ。

私もよく、発達障害や心の病気を患っている方から相談を受けます。
霧島は、※とても、おてんとうさまに顔向けできるような善人ではないんですけど(※我が悪友一同、談)

なぜかね。この30年来、人生に迷子になった人が、いーっぱい、やってくるんだ。


生きづらい、生きづらい、とはいうけれど。


私は、「霧島楓」もしくは、「シルヴェーヌ・アデルベルタ」の名前で多くの出版社さまから、電子書籍を出してもらっています。

発達障害や精神疾患にまつわる問題を書いた本も、いっぱい書いています。
ベースになってるのは、霧島の体験談です。

ただし内容は、対象読者が、目に見えない障害だろうが、心の癌だろうが、毎回、忖度(そんたく)なし、かなり辛口です。

今日も、爽やかな笑顔で、暗緑色の毒液を吐きまくっています。

「次に会うときは法廷だ」

普通に生きてたら、人生でこのセリフを言うことも言われることも、そうそう無いと思いますが、悲しいかな、ペンを握って飯を食ってる職業の人間は、今も昔も、常にこういったリスクと背中合わせで生きてるんです。

そんなアウトローな人間に悩み相談なんて、「もしかしてマゾヒストですか」と聞きたくなるけど、それだけ藁(わら)をも掴みたい心持ちなんだよね。

当事者にとっては。


就労支援事業所ができることって、何だろう


霧島には、日本全国で支援員をしている、若いお友達がたくさんいます。

私は支援する側とされる側、両方を経験しているので、皆、お仕事に対する本音を遠慮なしに話してくれます。

「就労支援事業所に来るのなら、『自分は会社の一員だ』という自覚をもって来て欲しい」

「うちはあくまで自立のために働く場を提供しているのであって、24時間対応できる便利屋じゃない」

よく厳しい意見を耳にします。

でも、一方で「自分の支援の仕方に否があった」

「もう少し気持ちに寄り添うことができたら、彼らはドロップアウトせずにすんだのかも」という後悔の気持ちも、よく聞きます。

皆、悩みながらも、とりあえず気持ちを切り替えて、前を向いて、毎日、職場に来ています。

支援員も、蓋を開ければ、皆、フツーの男の子であり、女の子です。

そして、私たち、障害を持つ人たちも、蓋を開ければ、やっぱり、皆、フツーの男の子であり、女の子なんです。

そして、支援する側もされる側も、同じ職場で働く大人です。

じゃあ、自分は組織の中でどう振る舞うべきなのか。

どういう姿勢で取り組むべきなのか。

答えなんて、本当は、あっけないほどシンプルなのです。

一人一人のエゴイズムが、問題をこじらせているだけで。



実録、霧島24時!


霧島が福祉の現場にいた20年前は、まだ「施設」「指導」「園生(えんせい)」という言葉が当たり前に使われていました。

山奥にひっそり隔離された入所施設が、田舎には当たり前にありました。
時代は、ようやく殴る、蹴るといった利用者(園生)への体罰が、法律で禁止された頃です。

霧島は丸1年、作業所で、現場監督をするバイトをしていましたが、まさに毎日が戦場でした。

時は超・就職氷河期。

20社以上の面接に落ち、路頭に迷った霧島(当時20歳)は、今は無き施設に「どこの馬の骨でもいいから、とりあえず女を一人、連れてこい」という素敵な理由で雇われたのですが、

初日から、利用者たちに、間断(かんだん)なく罵詈雑言を浴びせかけられる洗礼を受けました。

詳細は書けませんが、いわゆる『海千山千』と呼ばれた輩も多く潜むようなところです。

しかし当時の霧島は、かなり血の気が多く、学生時代は、年に一度はリアルファイトをやらかし、そのたび教師にお叱りを受けました。(※マイルドに編集しています)

毎朝、登校するたび、校舎を睨みつけながら「畜生、今日も燃えてねぇ」と舌打ちするような学生でした。

そんな人間に、肉体労働の現場監督をやらせたらどうなるか、火を見るよりも明らかです。

そんな問題児を雇う会社も相当、問題ですが、我ながら、よくミドルキック…いえ、手をあげなかったものです。

まあ、解雇されたら最後、ホームレスになるのが確定していたので、そのリスクと両天秤にかけていただけですが。


要するに、もう誰も私のような思いはしてほしくないんだ。


霧島、たられば話は嫌いですが。

もし障害者じゃなかったら、全く違う人生が待ち受けていたと思います。

10代、20代と繰り返し、繰り返し、壊してしまった脳神経は、もう二度と元には戻らないし、実際、後遺症も残っています。

それでもね。

他にありえた人生は、羨むことはできても、想像できません。

だから、相談に来た人には、やっぱり忖度なしに、ありのままの霧島の軌跡を話します。

反応は様々です。

「自分のほうが恵まれてる」と感じた人。

「不幸話を切り売りしては、自分に酔っている嫌らしい人」と軽蔑する人。

正直、相談する人に限って『霧島の話をプラスに生かして、もう一度立ち上がってみよう』という気概のある人には、滅多にいません。

でも、それでいいと思うのです。そういう人には、はなから期待もしていませんし。

私が幸せにできるのは、自分自身だけ。

そう思って、生きてきました。

ただ、ごく稀に、思わぬところで、自分が撒いた種が、ひょっこり芽を出しているのを見つけることがあるのです。

その小さな、小さな芽には、雨にも負けず、風にも負けず、すくすく育って花を咲かせてほしい、と心から願っております。



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