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キメラ

良質?なテンプレートのおかげかせいか、年々デザインがキメラ化している。凄くシンプルなUIに複雑なタイポグラフィ、破綻しているグリッドシステムに機械的なレタッチが施された画像。それらに気付くことが出来ないが故に紡いでいる部分は糸で仮縫いした様だ。

デザインには常に「なぜ」が問われる。なぜこの様なレイアウトなのか、なぜこの書体を選んだのか、そもそもなぜデザインを必要としているのか。これらの千本ノックとも捉えられる問いに全て簡潔に答えられなければならない。
と、本来なら教育を受けるはず。

デザイナーは自己表現する職業ではない。
価値にカタチを与えるコンサルだ。
コンサル会社に勤めてる会社員さんで、自分の私情を挟むバカはいるだろうか。いないはずだ。
しかしデザイナーにはそれが何故か存在してしまう。新しい書体を使いたいからと案件に何ら文脈の無い書体を用いたり、アワードに出したいからぶっ飛んだデザインにしようとか、挙げ句の果てには「わたしはデザインのプロですよ」と言って好き勝手に自慰デザインをしクライアントさんを丸め込む人もいる。最後にいたってはただの変態だろう。

テンプレートを用いるのは何も悪いことでは無い。時間や金額等のコスト削減の面はもちろんのこと、技術が及ばない点を補填するにも適している。がしかし、テンプレートを信頼し過ぎてるのでは、と感じることもある。テンプレートは完璧なモノではなく「ただの箱」だということを忘れてはいけない。その箱に情報を詰めていくとどうしても綺麗に入りきらないものが出てくる。その際には新たにテンプレートを探し直すのも良いし、手をいれて箱を設計し直すことが必要である。クライアントさまが持っている情報をいかに綺麗にパッケージング出来るか。
例えばプレゼントをいただいた時、包装が汚いとどんな気持ちを受けるだろうか。決して良い気持ちはしないだろう。では逆はどうか。綺麗に包装されているものに「綺麗な包装だ!」と歓喜したことはあるだろうか。これもそういう職業に就いたりしていない限りはそこまで意識しないのでは無いだろうか。何故なら期待はプレゼントそのものに有り、包装には上部だけの感情しかないことだって有り得る。
つまり本来意識されないものが少しでも悪い印象を持っていると途端に主張をしてくる、ということだ。相手に渡すプレゼント(情報)において、包装(テンプレート)というものは悪い引っかかりがあってはいけないのではないか、と見解する。

多種多様なテンプレートが存在する中、それらを流用するのは結構だが、いま一度クライアントさまに寄り添えて試行錯誤しているかを見つめ直して欲しい。色々な想いを紡ぎ合わせることはとても大切だが、造形的なキメラは想像上の世界に置いておこう。

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