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こと創作において、既存のモノと何かしらの差異を見出すことはとても重要なこと。隅々までリサーチしそこから創作物の解像度とコントラストを上げていく。

果たして本当にそれは新しいのか。
そもそも「新しい」とは何なのか。
「新しい」という感覚は何をもって定義づけられるのか。

ここで留意しておきたいのは、自分は無知である、という前提を持っておく必要があるということ。
自分が「新しい」と思ったものはもう既に世に存在しているのでは、と疑う癖を持つべきである。

ヒトはインプットなくしてアウトプットしえない。いま自分が思い付いたアイデアは恐らく誰かも既に考え付いているだろう。そしてそれは自分がただ認知出来ていなかった、では済まされないことが多々ある。海外ではオマージュという文化は寛容に受け入れられ評価に値するものであるが、日本では「パクり」という別の認識にて悪しき評価をされることが多く、この文化は恐らくそう簡単には覆ることはない。オマージュには尊敬とユーモアが含まれ、パクりには怠惰と下心が含まれている。

新しいことに挑戦するには、それの何が新しいのかを語れる文脈が必要である。技法なのかアイデアなのか。そして今までにないものだった場合は次のステップ、
「本当に生み出す意味のあるものなのか」
という問いに端的に答えられるかどうか。

フリーランス黎明期の昨今、ありとあらゆるデザインとは呼べないものが生まれ、また、本来の解釈と異なる文脈で爆発的に言葉が広がっている。もちろん個々の表現は自由で開放的であることは喜ばしいことだが少し目障りだ。現にいま流行っているタイポグラフィとTypographyは≠である。これはカタカナという曖昧な表記が悪いのもあるが、先人が定義づけを広くしてしまったことの弊害でもあるように思える。遠い昔であれば、言葉を大切に紡いでいた詩人の方々のほうがよほどTypographyに精通していた。

新しいモノをつくるには少なくともその界隈だけでも歴史を知っておかなければならない。歴史を知らないとそれが新しいモノだと言える根拠がどこにも存在しないからだ。かといって、ただ単に知識を詰め込めばいいモノでも無い。

新しいデザインはなにも、机の前で頭や手だけでするモノでは無く、足や口、耳も使う。

デザイナーなら表層的なデザインを真似するのではなく、流行っているものを何故流行っているのかを言語化出来なくてはならない。

たとえば、昭和、平成、そして令和。
各時代のアイドルからも世相が読み取れる。
昭和では個を優先した構図が多かった。
平成に入ると一転して多様な個をまとめ組織をつくり、そこから個を選ぶ構図になった。
令和では平成に続き、個をまとめた組織が主ではあるが少し変わって、組織自体を個として改めて認識しているのではないか。
平成ではゴマキというが、モー娘のゴマキとはあまり言わない。こじはるもしかり。
しかし令和ではNiziUの〇〇、といったように頭に組織名が付くようになった気がする。これらはどういうことなのか。それはあだ名を取っ払うことにより生まれた策略なのかもしれない。

このような馬鹿げた憶測が、的外れでも自分の言葉で話せるようになれればそれはクリエイターとして強みになるのでは無いだろうか。大切なのは自分はどう思ったか。そして、世の中はどう思っているのか、を自分はどう考えるのか。

ぼくはいま、新しい書体の在り方を作っている。もっと自由な書体を。

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