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センス

デザインはセンスがないと出来ないのか。

という問いに関して
ぼくは声を大にして「はい」と答える。
理由は簡単で、センスがないと本当の意味でのデザインが出来ないからだ。

デザイン関係者ではない方の、一般的な「センス」という言葉の解釈は、先天的なもので「才能」という言葉のニュアンスに近い。恐らくデザインをしているとクライアントさまに
「私はセンスがないのでデザイン出来る人本当に凄いなと思います!」
と言われた経験があるのではないかと思う。
これに関しては著名なアートディレクターさんが仰られている「センスは知識の集積」という言葉で打ち返せるだろう。

ここで「知識の集積」とは何なのか、を考えてみたいと思う。
・知識とは、<以下、辞書にて>
① ある物事について知っていることがら。
② ある事について理解すること。認識すること。
③ 知恵と見識。
と記載されている。

①と②はなんとなくわかる。
さらに③に注目してみた。

・知恵とは
①事の道理や筋道をわきまえ,正しく判断する心のはたらき。事に当たって適切に判断し,処置する能力。
②単なる学問的知識や頭の良さではなく,人生経験や人格の完成を俟(ま)って初めて得られる,人生の目的・物事の根本の相にかかわる深い知識。叡智(えいち)。ソフィア。
・見識とは
① 物事の本質を見通すすぐれた判断力。また,それに基づくしっかりした考え。識見。
と記載されている。

まさしく上記の通りだと思う。


ただ何故だかいまいち「センス」としての答えにどこか物足りなさを感じる。
反感を買うかもしれないが、ぼくはセンスはある程度先天的なものもあると思っている。人には美しいと感じる不思議な感性がある。ただこの感性は少し厄介なもので経験値により大きく左右される。ここでの経験値とは勉強などではなく、生まれた環境、今日までに経験したすべての事柄のことを指す。
何を見て育ってきたか、何を思って行動してきたか、沢山の行動の蓄積が不思議な感性「センス」を育てていく。

師匠はこんなことをぼくに言ってくれた。
「センスには2種類あってそれは、選ぶセンスと創るセンスとがある。」
選ぶセンスとは、
物事を取捨選択し判断するセンス。
創るセンスとは、
何もないところから生み出していくセンス。
というものらしい。

そして、少し自慢げに聞こえるかもしれないが、
「おまえは珍しくこの両方をバランスよく持っている。」
と師匠に言われたことがある。
選ぶセンスがある人はデザイナーに向いている。創るセンスがある人はアーティストに向いている。とのこと。
創るセンスに比重が傾いているデザイナーは確かに魅力的だが自分の才能故に溺れていくのだという。
デザイナーとしては素材を上手く料理していく選ぶセンスに比重が傾いているほうが息が長いらしい。
ぼくはよく自分の作ったものを完成間近になると壊してしまうクセがある。それがもの凄く時間がかかったものでも躊躇なく壊していく。このクセは学生の時から今日まで続いてる。
師匠は学生時代のぼくのことを全てお見通しで
「何か課題を完成させたことはあるか?ないだろう?それがおまえの良いところだ。」と言われた。
ぼくは何を隠そうそれまでデザインの課題を完成させれたことがなかった。芸大の4年間のうち、完成させたものは卒業制作とタイポグラフィ年鑑の学生部門に入選した2つの作品、合計してもこの3つしかなかった。いずれも師匠との出逢いの後のこと。
選ぶセンスが創るセンスを成長させ、それがまた選ぶセンスを成長をさせている、と言われた。そしてそれは諸刃の剣だとも言われた。
このまま何も作れないデザイナーになってしまう可能性がある、と。
そこから師匠はぼくのことを育ててくれ、何とか完成させるクセをぼくに付与してくれた。
この出来事が無ければデザイン業界から完全に消えていたと思う。ぼくは師匠に何も伝えきれていないが凄く凄く感謝をしている。いつの日かこの感謝をぼくなりのカタチで伝えようと思っている。

クリエイターになった以上、センスとは上手く付き合っていかないといけない。いつか自分のセンスがズレてくるかもしれない。その時は、センスを時代という音叉でチューニングをしつつまた奏でていく。
どこの業界もそうだが、日本のデザイン業界は上を見ると、もの凄く分厚い靄に包まれている。不透明な団体や選考基準。自分たちが最先端だと思いこんでいる。色んな意味でポイズンである。

最後にぼくなりのセンスという言葉の解釈を。
センスとは、

「人を思いやる気持ち」

だと思っている。

デザインは人を思いやる気持ちが無いと出来ない。そういうことではないだろうか。

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