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鏡の中の顔、そして自分と結びついているでたらめなストーリー、それこそが自我

いきなりですが、昨日なんとなく過去にEvernoteにクリップした記事を読み漁ってたらなかなか面白かったので、
今日からすこしずつ「Evernoteの記事をシェアしていくシリーズ」をやっていこうと思います。
※ソース元がわからないものが多いですが、分かる場合は記事の最後に記載します。


2014.4.19のクリップ記事より

そもそも、自我って何なの? 

以下、ブログ What is the Ego, Anyway? (Raptitude)の和訳より。

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君は誰なんだと世界が君に問いかけるだろうが、答えられないときは、世界が教えてくれるはずだ。

カール・ユング


いま自分は生まれたばかりだと考えてみてほしい。
何もわからない。まったく何もまだ経験していない。
だが、つぎの瞬間、光があり、混沌がある。
剥き出しで、寒い。
ぼんやりしたいろいろな形がまわりで動いている。
子宮では聴いたことがなかったような鋭い響きをもった音に襲われる。
すべてが眩しく騒々しい。そして形は慌ただしく動く。
あまりにも多くのことが起こっている。
すべてがまったくよそよそしく、どうしようもなく強烈だ。
たまらない気分になる。泣く。

いろいろなものが見えるが、その中には、のちに顔と呼ぶことになるものがある。
だがそれはまだ顔ではない。それは形で、そこについている模様にはそのうち見慣れることになる。
そして、のちにこれが声だと教えられることになるものが聴こえる。
そのうちのひとつは既にとても聞き慣れたものになっている。
それは、「ママ」って呼ぶのよ、と言われることになるものだ。

この時点で間違いなく気づいていないものがあるが、そのひとつが自分だ。まわりにある形や音や感覚には全部気づいているけれど、それを自分や誰かほかの人たちに起こっていることとしては捉えてはいない。
わかるのは、それが起こっているということだけだ。

起こっていることの意味をいったいどうやったら理解できるのだろう?
幸い、人間として生まれてきているし (と言っても、そのことにまだ気づいてないけど) 、人間のマインドには関連付けをする力がある。
頑張ろうとしなくても、ある形や音を、ある思考と関連付けて捉えるようになる。
母親の声を心地よさに結びつける。
母親の声が心地よさそのものになる。

暗さを眠気と結びつけ、もしかしたら孤独とも関連付けたりするかもしれない。
入浴の時間に感情面で起こることによって、入浴を楽しみと関連付けたり、恐怖と関連付けたりするだろう。

こういう関連付けは積み重なっていく。

経験によって、Xが起こればYを期待するようになる。
そうなるとXはYを象徴しはじめる。
やがてはXとYを見分けられなくなるかもしれない。
時間の経過とともに、そういう関連付けが増えつづける。

これは自分の周囲の混沌を整理する助けになる。
たとえば、温かい手とやさしい声をもったものは、たいていは好ましいものだとわかる。
単純な関連付けだ。これが自分のまわりでぐるぐる回る状況の意味をつかむときに使う主な道具になる。

この時点ではまだ外側を見ているだけで、見ている側にいるのは何かという興味はまだ起こっていない。
つまり、存在するもの全部 ― すべての形、音、記号、物語 ― がそっちに、外側のどこかにあるように見えている。
すべての動きの中心には何があるのかを、じっくり考えたくなる動機はまだない。

生まれてから数年のあいだに、「特定の形や思考や感覚があなたなんだよ」と教わる。
下を向くと、自分の視点からいくつかの付属物が伸びていることに気づくが、それはあなたの胴体、腕、脚なのよと教わる。
この時点でも、自分と自分のまわりの世界の間に境界があることを示すものは何もない。
下を向いたときに見える足は、「そこ」にただあるだけであって、足の下の床が自分でも自分のものでもないのと何も変わらない。
だが大人たちが使う「あなた」や「あなたのもの」という言葉、「自分」や「自分のもの」に置き換えることになるその言葉は、やがて特定のものごとだけを特別扱いするきっかけになっていく。

「自分」や「自分のもの」に置き換えることになるその言葉は、やがて特定のものごとだけを特別扱いするきっかけになっていく。

大人たちから、赤い本はあなたのものだけど、青い本はあなたのものじゃないのよと言われる。
特別扱いするようになったものごとは、感情的に言えば余計な重みを持ち始める。
赤い本が消えると、青い本が消えたときよりも断然つらい。
赤い本は「あなたのもの」だったからだ。

ほかの人たちとのいろいろなやりとりを通して、起こっているすべてのものごとの中心にあるものについて、概念を築きはじめる。
それは人、生まれてからつきあいがはじまった人々と同じ種類のものだ。
と言っても、人々は自分と同じようには見えない。
自分の視点から見ると、彼らの様子は自分とはかなり違う。
たとえば、ほかの人たちにあるような顔が、直接目に見えないかたちで自分にもついているような気はしない。


最悪の関連付け


節目となる、もっとも破壊的な出来事が、ほぼ全員にほとんど同じように起こる。
鏡に向かいながら、鏡の反対側にいる子どもを見ていぶかしんでいると、親がこう言うのだ。

「それがあなたよ」

はじめのうちは意味がわからない。
と言うのも、親が指差しているのは鏡の中の幼児であって、自分じゃないからだ。
それにその見たことのある幼児、ときどき会う友だち・・・鏡を見ていないときはあの子はどこにいるんだろう?
鏡以外のところで見かけたことは一度もない気がする。

両親はその子のことを相当しつこく「あなた」と呼び続ける。
それは自分のニックネームなのにと思いながらも、やがてはそれを受け入れることになる。
何と言っても両親がなんでも自分よりよく知っているのはもうわかっているのだ。
そしてこのまさかと思うような主張も、他のことがらを消化するのと同じように徐々に飲み込んでいく。

そして大きくなっていくにつれ、この世にあるいろいろなものごとを自分と関連付けるようになる。

自分の服。自分のおもちゃ。自分の友だち。自分の部屋。自分の家。あらゆるものに自分の利害が関わっているように思える。
心配しないといけないことがたくさんある。
それは、それぞれのものの運命が、自分の運命を少なくともちょっとは左右するような気がするからだ。

でも、もっと深刻になる。
いろいろなものと結びつくだけでなく、見えないものごとにもこの特別に慎重な扱いが必要な独特な地位が与えられ、それとも一体化しだすのだ。

自分の順番。自分の考え。自分のやり方。自分の問題。自分の欠点。
そうなったときには、鏡に写っている像が自分だということにまったく何の疑いも持たなくなっていることだろう。
その独特の地位を与えられた思考と物体の集合には、いまやはっきりとした外見と説得力のあるストーリー展開があるのだ。
そしてその集合の世話をすることに、どうしようもないほど夢中になる。

鏡の中のその人、以前夢中になっていた360度広がる世界と比べるとがっかりするほどちっぽけなその人は、風景の中でなによりも重要な要素になって、その相手をすることになる。

自分の歴史、自分の特徴をその人と関連付けはじめる。どれだけ頭がいいか、何が得意で何が苦手か、何に値するか、何を恐れているか、何を望んでいるか、どこに行ったことがあるか、これからどこに行くのか、といったことだ。

自分にあるものはそれだけ。
その人に何かが起こるなんてことは絶対にありませんように。
そうなった時点で、この像とそのストーリーだけが自分とは誰なのかということを構成していると確信して、何の疑問も持たなくなっている。
それ以外には何もないのだと。


ストーリーを操る


そしてそのあとずっと、その像に起こることすべて、そしてそれに伴うストーリーは、自分に対して起こるようになる。
ストーリーが思い通りに進めば、その像は何かを手にする。上々だ。
ストーリーが期待通りにいかないと、その像は何かを失う。それはあんまり気に入らない。

この顔とこのストーリーが自分のすべてだということになっているせいで、このストーリー展開を操り、頼りない小さなヒーローを操ることが重大になってきて、それは恐ろしい深刻さを帯びだす。

起こることのほとんどは自分のコントロールを超えていることなのに、この像とそのストーリーを自分に好ましいものにすることが絶対的に重要になる。これに関しては失敗するわけにいかないんだ、と。

けれどもストーリーはいつでも理想的な展開から外れているような気がするし、何かが間違っているような感覚、あるいはそこまでいかなくても、間違った方向に行く危険があるという感覚がいつもある。
起こるべきだったことはまだ起こっていないし、起こるべきでなかったことが起こってしまっている。

ストーリーを操ろうとして頑張りながら、状況がいつめちゃくちゃになってもおかしくないことに深いところでは気づいている。
それでも納得できるようなストーリー展開に向かって、精一杯ストーリーを操ろうとする。
調整を続けないといけない、あらゆる欲求の中でいちばん大切なこの欲求を満たしてくれる未来を手にしなくてはならない、とつねに感じ続ける。

これが人間の習うゲームだけど、このゲームに勝つのは本当に本当に難しい。
これが自分だと思っているとおりだってことは絶対ない。

鏡の中の顔、そして自分と結びついているでたらめなストーリー、それこそが自我だ。
言い換えると、これが自分だと思っているものが自我だ。

自我を「偽りの自己感覚」だと説明する人たちがよくいる。
でもそれは誤解のもとじゃないかと僕は思っている。
そういう説明は、自分が誰かということを正確に捉えるやり方と不正確なやり方があるという意味を含んでいる。
悪い自尊心と良い自尊心。
でもあなたが抱えているイメージが適切かそうでないかを言える人なんているだろうか?

自尊心は自我だ。
それは、自己についての思考が心地よいものか、それともぞっとするようなものかには関係ない。
自分が誰かということを自分の思考が突き止めるなどということがありえるだろうか?

気まぐれなことで悪名高いデタラメな連想中毒のマインドが、仕事と顔と体格と人間関係と能力と経験と恐れと欲求の特定の組み合わせが実際何を意味しているかを的確に考えるなんてことがありえるだろうか?

そういうものはどれも人生の内容、スタイル、味わいなんだけど、それを全部足したら本当にひとりの人間になるんだろうか?

もちろんそんなことはない。
自分についての考えは絶えず変化しているからだ。
日ごとではなく、瞬間瞬間に、そして気分の変化に応じて。

そのときどきによって僕は自分のことを、耐えられないほどの失敗者、べらぼうな天才、なにごともちゃんとやり遂げられない男、人生で一度も深刻な問題を抱えたことがない男など、さまざまな人間として考えてきた。

自分とは何かという考えはあまりにも不安定で、そのときどきの気分や状況に左右されているから、それが正しいなんてことはありえない ― 絶対に!

自我は、いつでも変わり続けている思考がたくさんごちゃ混ぜになった寄せ集めにすぎないし、それはいつでも変わらない。
でも普通はそんなことに気づかない。
一般的に、人々について日常的な感じで話すとき、つまり君と僕というような言い方をするときは、自我のこと ― 人生に現れるいろいろな形に基いて身につけたアイデンティティ ― を指している。
言い換えると、いまの社会では自分自身と自我を混同することがまったく普通になっている。これが自分だと思っているものと自分は違うんだということに気づく人もほとんどいない。

このことは僕らの生活や社会の質に対して桁外れの意味を持っている。
あまりにとてつもなくて、この記事では扱えない。
今のところは、人間の行いのなかでも最悪のものがこの凄まじい勘違いから生じているということだけ言っておけば十分だ。

自分とは自分の思考のことだなんてことがありえないのは明白だ。
第一、考えていないときの自分は何者だと言うのだろう?

じゃあ自分って何なのだろう?
何が残っているだろう?
これが自分だと考えているものは自分じゃないということはわかった。
もしくは少なくとも、これが自分だと考えているものが、全体から見ると、状況にかなり左右される頼りにならない一部分にすぎないってことはわかった。

思い出してほしいのは、生まれたときには自我がなかったということだ。
関連付けをとおして自我を積み重ねてきたのだ。
じゃあ、生まれた存在が自分に気づきはじめるよりも前には、誰が ― 何が ― 考えたり知覚したりしていたんだろう?

こんな文を覚えているだろうか?

まわりにある形や音や感覚には全部気づいているが、
それを自分や誰かほかの人たちに起こっていることとしては捉えてはいない。

わかるのは、それが起こっているということだけだ。

どうすればその状態に戻れるだろう?
自己だとみなしている考えを長年にわたって受け入れてきたあとで、そんなことは可能だろうか?

自我が現れて「やあ、僕は君だよ」と言うよりも前の自分が何だったのか、はっきりと見るための方法が必要だ。

汚れた床をゴミを使って掃除できないのと同じで、いくら考えたところで思考のこの混乱状態を解消することはできない。


ここが、ダグラス・ハーディングのやり方の出番だ。続きを待て。


== 和訳は以上 ==

改めて読んでみたら本当に深い。
この記事を最後までドンドン読み進めてしまった人はおそらく、命の深い部分が共鳴しているんだと思います。

ソース元のブログは2018年に更新停止しているみたいですが、まだ残っているのでシェアしておきます。

🔻ソース元ブログ


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🔻note書いてる人


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