『saṃsāra(サンサーラ)』3


 
 
3       夜
 
昨日見た夢はそんなんだったか。
頭が痛い。私は椅子に座っていた。手足は動かないよう拘束されている。意識がないうちにまた私は暴れたのだろうか。椅子に座っていることに気が付く。眠気はいまだに覚めることはなく、頭の中をぐるぐると泳いでいる。クジラが空を泳ぐ夢。狐が踊りを踊ったり。山か何かがしゃべったり。なんとも不思議な夢だらけだ。私が連れていたあの犬は昔飼っていたものだろうか、思い出せない。夢の中の不可思議なことも、現実にいる個々の場所もどちらが本当でどちらが夢なのかもう私には区別がつかない。点滴の針が腕に刺されている。もう少しも体は動かない。意識はどんどんはかなく消えていく。
 
誰かの言葉が遠くで聞こえる。
誰かの言葉も、もう聞こえることはない。
 
夜は私たちを待っていてくれた。誰に断りを入れるわけでもなく自分の好きなように。空は墨をこぼされたかのような濃さで夜を広げていく。
そんな中、昼と夜の狭間は紫色と相場は決まっているが、こちらのものは私が今まで見てきたもののどれよりも壮大で美しかった。というより私自身がこんなに夕焼けをきちんと見たことがあったのかと思い返す。
夕焼けに対峙した時間を。
背中の大きな門はいつの間にか閉じられている。門をくぐれるのは一握りなので、先ほどより人の数が少なくなっている。門をくぐった人々は、やはり昼と夜の隙間に気を取られている。そう、私のように。
この光景を見るだけでも、あの門をくぐりたくなるのはよくわかる。
そういうことを感じていたのか、帰されるものはあれほど無念そうにしていたのか。
「旦那様。そろそろ。もうだいぶ遅れていますので」
「ああそうだな。あまりの美しさに見とれてしまったよ」
その時、風が吹いた。
その強さは今まで私が感じたことがないくらい。足元がおぼつかない。
「旦那様。」目をぐっと閉じたままの犬は
「旦那様。決して落ちてはいけませんよ。這ってでも先に進みましょう」
「あぁ」そう言うのも、息を吸うのもやっとだ。風は吹き続けている。止まる様子がない。薄目を開けると、先ほどより夜が進んでいる。
私は犬のように這って、そろりそろりと先へと進んだ。
その行く手に、色々なものが私の手に足に当たってくる。
丸い金属や、棒状の物、眼鏡に入れ歯、時計に傘。身に着けているすべてのものを、風は容赦なく巻き上げていく。容赦なく吸い上げていき、どこかへ連れていく。
「うぁぁぁぁぁ」
近くで叫び声が聞こえ、そちらに顔を向けると目の端に、誰かが土手から転がり落ちていく姿。
私は必死に手を伸ばすが届くことはない。
夜の奥は、転がり落ち行く人を飲み込んでいく。
夜の深さに、声だけが響き渡る。
のどが渇いていく。
 
「旦那様。もう少しです」濡れた鼻先でそれを感じるのか確かに、風の勢いは徐々に弱くなっていく。
「わかった」薄目をそっと開いてみる。夜は濃く深くその空に満ちている。
あの美しかった、昼との隙間も、風にまき散らされて。
白い花たちも、あの川の流れもすべて夜の黒は塗りつくしていく。
犬の姿も今では、はっきり見えないほど。
 
まるで風が夜を連れてきたかのように。
まるで夜が誰かを連れていくかのように。
突然に風は消える。
やってきた時と同じように。突然に。何らかの作業が終わったかのように。
しっかり目を開ける。あたりの暗さは先ほどの比ではない。昼との隙間はもういない。あたりの人の気配もありやしない。土手の輪郭もわからない。大体にしてここが土手なのかも感じられない。足元ですら見えることはない。何の上に立っているのかさえ分からない。上がどこで下がどこかもわからない。
黒の世界がやってきた。
「旦那様。」犬の声ではっとする。
そのままでは、土手から落ちてしまっていただろう。
「あぁ、犬か。犬はそこに居るんだな」
「旦那様。あなたの手には、私へとつながる手綱があるじゃないですか」
自分の手元を確認すると、ぐるぐるとまかれた手綱がそこにある。ただその先が何処につながっているかはわからないが、確かにその方向からあの犬の声は聞こえてくる。
「旦那様。気をつけてください。落ちてしまうと上ってくるのに難儀ですから、慎重に私の綱を手放さずに、ついてきてください」
「犬、お前はどこへ向かっているのかわからないのではなかったのか」
「旦那様。どこに向かうかはわかっておりませんが、ここにいるよりはましな気がするのですが」
「たしかにな、こちらで朝を迎えるまで待つというのもなんともな」
私は立ち上がりズボンやら外套やらについた土を手でパンパンと払った。
くんくんと手綱に力がこもる。犬の息遣いが手綱を伝わる。
手綱の手ごたえだけが私の道標となっている。
 
 
おそるおそる足を踏み出す。そこに足場があるのかも、わからないほどの深い闇。
色のない世界。
はてと思いを巡らす。本当にこれは夜なのであろうか。確かに先ほど夜と昼の隙間を体感したのは間違いなのだが。この暗闇を見ているとそれが本当に起こっていたものなのかどうかが定かでなくなっていく。私の勘定も揺れていく。
「旦那様。少しゆるやかに下っていますので、足元に気をつけてくださいな」
「あぁ、わかったよ」今頼りにしなくてはいけないのは、姿の見えない犬だけだ。
私の感覚もまるであてにはならない。おそるおそる土手を下っていく。どうやら道がそちらへと向かっている様子だ。私の目には何も映らないが、あたりへの感じ方が変わっていく。風の流れ方が変わっていく。あたりの草木の匂いが変わっていく。
先ほどと違うゆるゆるとした生暖かい空気の流れ。木々や花々が揺れて音を立てている様子。川の方から何やらが跳ねる音。
そんなものたちが、目が利かなくなった私の中に流れ込んでくる。
私の手に巻き付けられた手綱が、くんくんと私を引っ張っていく。
いつの間にか河原に降りていたのか下草をかき分けて進む犬の歩く音がする。私の足にも草が当たる気配がする。五感が研ぎ澄まされていく。目が見えない分、他の機能であたりを感じようとする。
「大丈夫かい」犬に声をかける。
「ええ、旦那様。ありがとうございます。どうにもこの先の様ですので、ご辛抱を」
この先とはどこのことなのだろう。頭に思い浮かべながらも、犬が連れていくままに私は付いていく。
 
思い起こせば私はなぜにこんなところにいるのだろう。
なぜに犬と散歩なぞしているのだろう。
何処に向かっているのだろう。
ここはどこなのだろう。
急に不安が頭をよぎり始める。
一つ怖く思う事があった。
それは、私はいったい何者だったのだろうという事だ。
自分の名前。それと住んでいた場所、何もかもが頭の片隅にもいない。今までのことが何もわからない。そもそも今までの事があったのか、すらもわからない。
そして、この犬は何者なのだ。何者なのだろう。何も思い出すことができない。
 
わからないが、不安だが、怖いのだが、犬は私を包んでいく。大きく。優しく。私のことを待っていたかのように。
恐れは緩やかに消えていく。恐れすら、感情すらも忘れていくように。
 
「旦那様。旦那様。」そう言われて我にかえる。
「あぁ、なんだい」
「旦那様。もうすぐです。余計なことは考える必要はございませんよ。考えたところで分かる事なぞなにもありませんし、いいことなんか何一つございませんから。」まるで私の頭の中の恐れを見透かしたかのような言い回しに、少しドキッとした。
「ああ、そうかいそれならお前の言うとおりにするよ」
「旦那様。それにこの先に階段がやってきます。注意しないとケガをしてしまいますので、気を付けてください」
 
階段のようなものは私には見えることはない。それは暗闇から来るためなのか、土手の下に階段があるという事を私がイメージできないためなのか。どちらにしても階段の気配を私は感じることができないでいる。いまだにあたりは暗い闇に包まれている。
色のない世界。
すると蝶はどこからやってきて、ははたはたと私の足元にとまる。急に視界の端からやってきて、何頭もの蝶が私の足元にやってくる。
一頭、また一頭。羽をキラキラと輝かせて。色の無い世界に色が躍る。蝶は闇の中から現れては、私の足元へ。折り重なっていく。
幾重にも幾重にも。
私たちの階段になるべく。
止まることなく蝶はやってくる。私たちに道を示すべく。
犬の顔が蝶たちによって映し出される。ほらねと言いたい様。にこにこと笑みをたたえている。
「ああ、これが階段なのだね。どれ」足先に蝶が段差になったもの。それがこつりと当たる。やわらかい段差を思い描いている。しかし思いは裏切られる。その段差がどのくらいの高さのものか足先でちょいちょい推し量ってみる。次から次へと蝶たちはやってきては、階段へと姿を変えていく。踏み出してみる。思っている以上にしっかりとしている。
闇の空から降ってくるように蝶は現れる。
白いもの、緑色のもの、赤いもの。きらきら光っている蝶たちは、すべて私の足元で透明の階段を作っていく。階段になると蝶たちはその光を失っていく。何もなかったかのように。光のことなど知りませんというように。ただその見事な光の群れに私はぼそりとつぶやく。
「どこからこんなに、やってくるのだろうな」そんな問いに犬は
「旦那様。考えるだけ無駄ですよ。答えは誰も用意してくれません。わかったところで、それがどうしたと言うんですか。分かろうが分かるまいが現実はこのままですよ」
「なるほど、そういうものかもしれないね。ところでこの蝶たちはどこまで積み重なっていくものなのだろう」
「旦那様。わたしは犬ですよ。私に聞かれてもそれはわかりません」
最初こそは、おそるおそる上っていた階段も、何段も登っていくにつれ、感覚で上がれるようになっていく。その間も蝶は休まずにやってくる。段数を積み上げていく。
十段二十段五十段、このぐらいまでは数えていたがそよより先は、段数を数える事をやめた。それ以上に階段はどんどん積み重なっていく。それを見ているうちに階段を数える事がバカバカしくなったのだ。蝶は休むことなくやってくる。蝶は段数を積み上げていく。どこまでもどこまでも。私たちにかまうことなく。私たちに遠慮することなく。
そうなると私と言えば息が切れてはぁはぁと膝に手をついたり、犬に悪態をついたりするようになる。上へ上へと向かいながら。
犬は相変わらず、私を階段の上へと引っ張っていく。蝶は休まずにやってくる。段数を積み上げていく。私たちをいざなうように。
一段又一段と。もう下の方はすっかり暗闇で、その様子は目で見ることができない。ずいぶんと川からは遠ざかっているのであろう、先ほどのように川をはねる何かの音。せせらぎなどは感じられない。蝶は休まずにやってくる。段数を積み上げていく。
きらきらと羽を輝かせながら、暗闇に色を与えながら。
 
蝶の階段を上へ上へ上がっていく内に、空気の密度が濃い場所に出くわした。白い塊のようなものが私の体を包んでいく。
「なあ、犬。これは、、、雲か」慌てて声が出ていた。
「旦那様。旦那様が、これが雲だというならこれは雲なのでしょう」
光が私たちを包む。
雲の隙間から一条の光が天から落ちてくる。まるで私たちを光の中心に立たせたかのように。そしてそこには、ものですごい数の蝶たちがあたり一面で踊っているのがはっきりとわかった。私たちのいく先へ蝶は橋を作っていく。透明なガラスの橋を。蝶は何頭と、何万頭と、何億頭とあの白い花たちのように、数えきれない数の蝶が躍っている。月に照らされて。
「これは、つきか、」
今まで見たことのない大きく明るい月がこちらを見ている。
「旦那様。旦那様が月というならこれは月に違いありません」
 

ひとまずストックがなくなりましたので これにて少しお休みいたします。 また書き貯まったら帰ってきます。 ぜひ他の物語も読んでもらえると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 わんわん