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#29 クラプトンのライブ~後編~

 ライブとは独特なものだ。自分が演奏するライブも、他人の演奏を見に行くライブも、同じ緊張感や空気が漂っている。4/15(月)18:00頃、武道館を覆っていたのも同じ雰囲気だった。敷地に足を踏み入れるなり、興奮が地続きで伝わってくるような感覚。本番を楽しみにしている観客に揉まれる息苦しさ。開演までの1分1分の長さ。そのどれをとってもライブに特有のもので、演奏よりもそういった雰囲気のほうがライブにとっては重要なのではとすら思う。

 苦しみを音楽という形で昇華させればその時は安らぐかもしれないが、長年音楽をやっていると別の苦しみに襲われる。自分の苦しみを昇華させた曲を演奏すればするほど、当時の思い出が蘇り、曲を通して同じ苦しみを再度味わわされてしまうのだ。音楽は想いを時に刻む芸術だから、音楽で過去を忘れることはできても、乗り越えることはできない。自伝的だったり私小説的な曲を書いたことのある人は、この辺よくわかると思う。

 クラプトンの偉大さは、その苦しみと向き合いつつ何十年もステージに立ち続けている、ハートの強さにあると思う。感情を爆発させるのがブルースだとしたら、爆発のさせ方にそのミュージシャンの生き様が表れる。俺も含めて大半のミュージシャンは音に気持ちを込めるから、感情がダイレクトに表現される。そいつが舐めてきた辛酸がにじみ出るような曲もあれば、愛おしいくらいこころが温まる曲もある。
 クラプトンはそれとは大きく異なっていて、彼の場合は音に籠っている感じだ。自分のうちにあるものを音楽に乗せて爆発させるのとは対照的に、自分自身が音に「入っていく」感じ。彼にとって、爆発させるべき感情は曲に込められているのだろう。だから演奏の際は演奏に感情を乗せるのではなく、原曲に忠実な演奏をするのだと思う。それが神たる所以かと。

 感動とか、上手い下手という次元を超えた場所にいらっしゃる方なので、何も考えずに聴いても大した感想は持てないかもしれない。うますぎて感動できないのである。親が死んだときに涙が出なかった。じゃあその子供は感情が欠落した悪魔なのかというとそうではないっていう話と似ていて、人は自分の理解を超えた存在には感情すら持てないのだと思った。
 クラプトンの音楽には彼の人生が映されていて、それはとうてい俺などの理解の及ぶものではないから。

 「リスペクト」って「二度見」っていう語源なんだよね(re+spect)。二度見してしまうほど尊い存在→尊敬、っていうことらしいけど、自分の理解を超えた存在→わからなすぎておもわず二度見する。そんな尊敬もあるのかなって思ったり。


Chira


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