「強くあれ」の呪い

物心ついたときから「強くあらねばならない」という言葉が呪いのように骨身に染みついていて、洗っても洗ってもとれない。
最近でいえば「有害な男らしさ」という風に批判されがちなこの価値観に、私はずっと毒されている。

基本的に、この価値観で生きていると「更に上に、更に上に」と常に急き立てられているような感じがして落ち着かない。
寄る辺も安息地もなく、上れば上るほど遠のく地上にめまいを覚えながらも、得体のしれない焦燥感から上り続けてしまうのだ。「そのうち真っ逆さまに落ちて死ぬに違いない」という不吉な予感を抱きながら。

出生時に割り当てられた私の性別が女であるゆえに、私がこういう価値観を内面化していることは全くもって気づかれない。
気づいた人間は一人もいない。いや、ひょっとしたらいるのかもしれないが、少なくとも表立って指摘されたことは一度もない。

だが、こういうことは実際にはありふれているのだろう。つまり「マイノリティがマジョリティの価値観をマジョリティ以上に内面化する」という事態だ。
その結果として、良くも悪くも歴史に名を残した人物は少なくない。ナポレオンはフランス本土ではなくコルシカ島の生まれだし、ヒトラーはドイツではなくオーストリアの生まれだし、スターリンはロシアではなくグルジアの生まれだ。

マイノリティはマジョリティをよく見る。そしておそらく、マジョリティに対する羨望や嫉妬や支配欲や復讐心に燃える。
「ああなりたい」「『そう生まれた』というだけで偉そうにしやがって」「見返してやる」「頂点に立ってやる」──そして実際、頂点に立ってしまう人物が出てくるのである。最良の復讐とは、マジョリティの得意分野でマジョリティに優ることだからだ。
とはいえ、こうした心情についてはあくまで憶測にすぎないが。

もちろん、私は偉業も巨悪もなしはしないだろう。しかし、精神性としては同じようなことだった。
どうにも自分が「女の子扱い」されることに納得がいかず、業腹で、小学校低学年の頃には女性性を捨て去ろうと決意した。

きっかけは些細なことだったかもしれない。スカートめくりをされて嫌だったことを大人に話したら「あらあら、男の子はやんちゃね〜」で済まされたとか。それで「嫌だったことを伝えてもまともに取り合ってもらえないのが『女の子』なら、そんなものはやめてやる」と決意したのかもしれない。
あるいは、うちのモラハラ父とそれに逆らえない母を見て「母のようにはなりたくない」「どうせろくでなしなら、奪われるよりは奪う側になった方がいい」と思ったのがきっかけだったか。まあ、今となってはなんでもいい。

あくまでも子どもの目線だが「DVやモラハラから守ってくれない親」というのは、それだけで「ろくでなし」に映るのだ。父は言うまでもなくろくでなしだったが、「子どもには両親がいた方がいいから」とかなんとかいって私を言い訳にウダウダやっている母も、当時の私には大概ろくでなしに見えていた。
「女が男に勝てるわけない。だから父が怖くて逆らえなかった」とか、そういうのは子どもの私からすれば言い訳でしかなかった。

「そうやって己の弱さを是として、変わらなくていい言い訳をしているから、いつまで経っても弱いままなんだよ。だから父みたいなしょーもない小悪党のカスに搾取されちゃうんだよ」と当時の私は思っていたし、今の私もどこかで思っているに違いない。

父を腕力でしのごうと努力する私を、母はかつて嗤った。「できるわけないじゃん」と。
私のベンチプレスの重量が80キロを超えた頃からだろうか、今度は私が母を嗤うようになった。「ほら見たことか、性差くらい、努力次第でいくらでも超えられるじゃないか! あんたが弱かったのは所詮あんたの努力不足じゃないか!」と。

いやきっと、私が本当に見返したかったのは、父というより母(とそれが象徴する世間)だったのだろう。
嫌なルサンチマンだ。「DVモラハラ野郎」という共通の敵がいればそれ以外は団結するのかといえば、そんなことはないということだから。巨悪の下にあっても、人は互いに馬鹿にし合ったり潰し合ったりする。巨悪がいるのに、巨悪ではなく隣の弱者にルサンチマンを感じるようなことがありうる。

もちろん、こうした思考回路は有害である。「変わろうと努力でき、結果を出せる」ことはそれ自体、恵まれた人間の証左なのだから。できない人を見下して切り捨ててよい道理にはならない。
「自他の弱さを認め、弱いままでもひどい目に遭わされないようにする」ことが健全な精神と社会のあり方なのだと分かってはいる。

だから私は「弱さを許せない」というこの呪いを、次世代に引き継がないよう必死だ。
むやみに口を開かず黙っていることと、道化を演じることが今のところ最良の方法である。

脱線

とにかく以降の私は「男のように、いや、男よりも強くあれ」という強力な呪いに憑かれ、これが今に至るまで解呪できていない。
おかげで学歴やら収入やら「わかりやすい肩書」という外殻は手に入ったが、これだっていつまで保つかわからない。足元がいつもおぼつかない気がしている。
常に崖っぷちに立たされていて、一寸先の「墜落死」の恐怖に怯えているのだ。それでいて「いっそ落ちてしまったら楽になれるのに」という死の誘惑を受けてもいる。伝わるだろうか?

「男性的な強さ」を追求した結果、こういう死の恐怖と誘惑に苛まれるように、この世は必ずしも男性が「勝者」というわけではないのだろう。
この世は多かれ少なかれ万人にとって地獄であって、あちらを立てればこちらが立たずというのが実情である。
持たなければ惨めだが、持てば重い。硬いと脆い。繊細だと傷つきやすい。渦中にいると溺れる。高みから見ていると孤独で、地上に憧れて飛び降りたくなる。

男性の方が自殺率の高い理由が、少し分かる気がする。
鉱物において、硬度と靭性は異なる。何が起きても傷つかないつもりでいたが、ふとした瞬間、思わぬ方向からの衝撃に木っ端微塵になるということがあるだろう。
あるいはここまで散々使った喩えだが、己の弱さを破棄しようと高みに上るから、どこかで限界が来て落ちるのだとか。上空は寒くて酸素が薄くて孤独だ。

死ぬことよりも、自分が弱者になることの方が恐ろしいからそうなるのだろう。
ヒイヒイ言いながらせっかく敷いたレールの上を外れることが恐ろしい。これまでの努力が水泡に帰すのが恐ろしい。
そして、自分がこれまで努力して積み上げてきたもの全てを投げ捨てて、何者でもなくなってしまうことが恐ろしい。私から努力によって獲得した「ステータス」を剥ぎ取ってしまったら、そこには何が残る? 何も残らないじゃないか。

けれど、自由になりたい。「責任をとれる限りでの自由」などという消毒された人間社会の自由なんかじゃない。むき出しの、野蛮な、野生の獣のような自由だ。帰結も責任も考えない無制限な自由だ。
そうしてどこまでも軽くなって、地を空をかけていきたい。

だが、そんなことは許されない。自分は人間だ。自らの行為の責任を負えることを誇りとする、理性的で倫理的な人間だ。
重荷を背負って人生の悪路を上へと進み続けることから逃げるわけにはいかない。

上って、どうするのだろう。報われたいのだ。
もっとも、報いなんてものが本当にあるのかは分からないが。

思うに、頑張ることに疲れてしまったときや、「いつか報われる」という信仰が揺らいだとき、立ち直る方法が男性性には乏しい。
ここには「丁度よい気晴らし」というものがない。だからぷつんと糸が切れると、死んだり殺したり、極端な逸脱行為に走りがちなのだろう。それまでひたむきに行ってきた努力、生きてきた人生の、全ての代償を一気に回収してしまおうとするからだ。
「無制限な自由」の誘惑に抗いきれなくなると、そうなるような気がしている。

ついでにいえば「人生の重荷」も重い。それも「いい大学に入ったら」「いい企業に入ったら」軽くなると思っていたのに、そんなことなかった。重くなる一方だ。
きっと、どこかで思い切って、この「重荷」を捨てなければならない。けれど、どうやって? これまでの人生で荷物を「増やす」方法はさんざん学んできたが、「減らす」方法なんて知らないぞ。
捨てなきゃこのままじゃ潰れる、だが捨てられない。この場合にとれる選択肢は三つある。「重荷を捨てなくてもいいくらい強くなる」、「勇気を出して重荷を捨てる」、そして「重荷と一緒に心中する」である。三つ目の選択をしてしまう人は愚かで少し弱かったのだろうが、気高かった。あまり笑う気にはなれない。

まあ結局のところ「自分のありのままの弱さを、上手く肯定できない」ことが全ての元凶なのだろう。
だからステータスでガチガチに武装しようとするし、この武装を解除できない。でもって、たまに武装ごと溺死したりするわけだ。

他者からの承認がほしい。しかも他者に対して「自分の強さだけを見て称賛してくれる、自分より下の存在」か「自分の弱さをすべて受け入れて愛してくれる、神のような存在」であることを望んでしまう。本人が自分を肯定し愛することにおいて、まず不器用だからだ。いずれにせよ「自分と対等な人間」に対して望むこととしては不健全である。

加えて「自分の弱さ」に卑屈にならず開き直りもせず、素直に向き合うことが苦手だ。
いっそ「親のせい」とか「環境のせい」とか「発達障害のせい」とかにできたら楽だったのかもしれないが、そういう「理由づけ」に身を委ねて諦めてしまうこともまた、「逆境にあっても努力で己の人生を切り開いてきた」という自己意識に反する。
恵まれない出自でも、努力で運命を変えられると信じたいのだ。だがもう、努力することに疲れてしまった。
いっそ頑張らない理由がほしい。しかしそんなものを求めてしまう自分の弱さと浅ましさをどうしても認めたくない。認められない。それは私がこれまでの人生で死力を尽くして忘れようとしてきたものだ。今更向き合えるか?

助けてくれ、いや、助けなんて求めるな。これまでもこれからも、自分でなんとかしてきたし、していくんだろう? それだけがお前の誇りだろう?
同情なんて求めるなよ。それは気高くない人間のすることだ。

結局のところ、こうやって「自分の弱さ」を誰よりも許さないのは自分自身なのだろう。私はそろそろ許してほしい。他ならぬ自分自身に。
しかし、そのように許しを乞う私を誰よりも見下しているのは、私でしかありえない。

ゆえに男性性の地獄は綺麗に閉じていると思う。他の人がどうかは知らないが。

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