キリスト教が、地獄で脅したとか脅してないとか①

私は伝統キリスト教2世として育ちましたが、長じるにつれ、神や教会に疑問を持つようになりました。教会コミュニティの狭い人間関係も苦痛で離れたい…そう思うようになっても、なかなか思い切ることができませんでした。

それは、地獄が怖かったからです。
教会の司祭や、今も信仰篤く教会に通っている人たちは言うでしょうね。
「私たちは地獄で脅してなんていない。そんなのはカルトのやることだ。私たちはただ、神の愛を伝えているのだ」と…。

私が地獄について教えられたことを書こうと思ったのは、伝統宗教のほうが支配や脅し方がマイルドで洗練されているのではないかと考えているからです。

(私は一応老舗大手で育ちました。直接的ではないけど、支配や脅しはあったと思います。
同じキリスト教内でも、教団や考え方の歴史が浅ければ浅いほど、脅し方が直接的で雑になる印象があります。Xを見ていて感じた、私の偏見ですが。)

これは、宗教2世ということばが世間に知られる前のことです。トラウマ治療で臨床心理士に地獄の恐怖について相談した時に、
「クリスチャンで育った人って、みんな地獄が怖いって言うんですね…」
と言っていただいたことがありました。地獄が怖いのは私だけではないということに、驚きました。

でも信じている人には、これがどうしてもピンと来ない…。信じている人間と離れた人間との間にある深い溝。なぜこんなことになるのか、私が考えてきたことを今回は書くことにしました。長いので前半・後半に分けることにします。

今日は「私は教会で、地獄についてどんな教育を受けてきたのか」を思い出すことにします。よかったら、お付き合いください。


1.私が教えられた、「罪」と「悪魔」と「地獄」

1-1.私が最初に見た、悪魔と地獄の絵

私の最初の「地獄」のイメージは、悪魔たちが地獄の炎で苦しんでいる挿絵でした。モノクロで、生々しくはなく、図案的に描かれたものでした。
(現物が手元にないのが残念です…今は使われていないかも💦)

私は小学生のとき、母に連れられて教会に通うようになりました。この絵は洗礼を受ける前の勉強で使われた本の挿絵です。
悪魔が元々天使だったのが、神に逆らって堕とされた。今も地獄で苦しんでいる…そんなことを教えられました。

1-2.悪魔が人間を罪に誘い込むはなし

つづいて私が覚えている同じ本の挿絵。
人間の斜め後ろに悪魔が立っていて、悪魔の手が人間の肩に掛かっています。何か囁いている様子…。

悪魔はいつも罪を犯そうと誘惑してきます。私たちはその誘惑に負けないようにしなければいけません。
といった内容が書かれていました。

子ども心に疑問に思ったこともありました…。
悪魔は地獄で苦しんでいるはずなのに、自由自在に地獄から抜け出て来れるのかと。神様が悪魔を閉じ込めてくれていれば、万事解決なのになあと。
(私、いつかはキリスト教を離れる運命だったのかもしれん)

1-3.罪を司祭に告白しなければ、赦されない

そうは言っても罪を犯すのが人間の言うもの。
(今の私は、人としてやってはいけないことがあると思っています。でも、罪云々を教会に決められたくはありません)

私の育った宗派では、罪を告白したら司祭に告白しなければいけませんでした。
その本には「罪を犯したら、すぐに司祭に告白しましょう」とも書いてありました。罪を告白しないことへの脅しもありました。

個人が犯す罪には「大罪」と「小罪」があり、「大罪」は赦されなければ地獄に行く罪だと教えられました。

そして、また挿絵。罪を司祭に告白するまえの心の中が図で描かれています。
大きな丸(大罪)、小さな丸(小罪)が2、3個ずつ書いてあります。これらの罪を正直に告白しないとどうなるか、という内容を教える絵でした。

罪を一つ告白しなかった場合は、告白した罪もそのまま赦されずに残る上、「罪を正直に告白しなかったという罪が加わるんだ」と教えられました。
挿絵もちゃんと、その人の罪として、丸が一つ加わっていました。
(大きい丸か、小さい丸かは失念しました)

「罪を正直に告白しなければならない」というプレッシャーは、私の思春期、青春期に影を落とすことになりました。



2.成人後「煉獄の話」も聞いたけれど…

今まで書いてきていませんでしたが、私のいた宗派では死後の霊魂が行くところとして、「天国」「地獄」、そして「煉獄」の三つの世界(?)が想定されています。

地獄も煉獄も「神の不在」と教わりましたが、地獄は永遠、煉獄は時間が経てば天国に行くことができるという違いがありました。

とはいえ私にとっては、子どもの頃に見た悪魔が炎のなかで苦しんでいる絵(図案的で生々しくなかったとはいえ)のイメージが強かったし、神のいない世界ってよく分からないし…。

「(当時の)教皇様も太鼓判を押した」という煉獄の本(冊子だったかな?)も読みました。
そこに出てきたのは、こんな話でした。

神を完全に否定して、祈るのを拒否してきた男の人がいた。その人が亡くなるときに、本の著者が祈った。
結果その人は、地獄に行くはずだったのを、著者の祈りのおかげで煉獄に行くことができた。

結局神を拒否したら地獄に行くんじゃん!
みたいなね…

また煉獄の人たちが天国に行くためには、今生きてる人たちが煉獄の魂のために祈らなければならないということも書いてありました。
「煉獄は天国に行くまでの待合所」とかも書いてあったな。神に焦がれてすごく苦しい(ここ曖昧です、ごめんなさい)とか…。

個人的には、個人的にはですよ…。
SNSで交流してくださっているクリスチャンもいらっしゃるけど、私が昔教会で出会った人たちには祈られたくはないかな…。


とはいえ私のいた宗派も、ふだんの礼拝の説教で地獄の話をされるということはなかったです。

次の記事(後半)では、何故それでも地獄が恐ろしかったのかを書いていくことにします。

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