この国の虐待被害者は、殺されなければ同情されない

1.虐待サバイバーが親から逃げたことを責める言葉、DV被害者に同じことを言えますか?

私が以前から不思議に思っていたことがある。

DV被害者がDV加害者から逃れてきて、交流を絶ったとき、
「加害者が可哀想」
「加害者にも事情があったのだから、ゆるしてあげなさい」
「加害者と向き合え、話し合え」
と言ってくる人はいない。

こんな風にDV被害者を追い詰める第三者がいたら、
「なんて酷い人なんだろう」と思う人が多いはず。

しかし虐待サバイバーに対して、そうしたことを平気で言う人は多い。私も散々言われてきた。
「孫を会わせないんて、どれだけ酷いことをしているのか分かってるのか」
「お母さんが可哀想」
「自分のやったことは返ってくるのよ」
「いつまで親と向き合わないつもり?」

等々…。

私が母親からの苛烈な暴力について具体的に話さないのは、相手を嫌な気持ちにさせたくないからだ。でも、(虐待サバイバーに、無神経に追い討ちをかける程度には)おおむね平和に育ってきた人たちには、伝わるはずもない。

最近の私は、関係の近い人に言われたときには、こう返している。
(以下、私の言うことは決してDV被害の深刻さを軽く見ているわけではありません。我が身を守るために話しています)

「DV被害者に同じことを言えますか?
あなたはDV被害者に、殴ってきた夫と向き合えと言えるんですか?
大人対大人の暴力はちゃんと酷いと思えるのに、大人が力の差が大きい子供に暴力を振るうのは、容認できるんですか?」

こういうと相手は黙るものの、納得できないか、
「我の強い"ちくわぶぶ"に呆れた。うんざり」
と言う顔をされてしまうことが多い。うんざりするのはこちらである。
こんなこと、誰がわざわざ説明したいと思うのか。どうせ徒労に終わると分かっているのに…。


この国の人たちは、虐待に遭った子どもが亡くなれば怒るし、こんな酷いことがあるのかとショックを受ける。
(常日頃娘をボコボコに殴ってきた私の母親も、虐待死のニュースを見ると、ボロボロ涙をこぼして泣いている)
でも加害者の親への量刑は軽いし、多くの人がおかしいと思っても、それが変わることはない。

量刑が重くなれば、虐待の被害の重みを多くの人がわかってくれるようになるのではないかと考えたこともあった。

でも結局、この国の多くの人が虐待被害の深刻さを軽く見ているから、子どもが虐待で亡くなっても加害者への刑罰が変わらないのだと思う。

子どもが亡くなってさえもこうなのだ。
かつての虐待被害者がたまたま生きていれば、「大したことなかったんだろう」で済まされてしまう
のだろう。

2.「あなたが生きているのは、愛されて育った証拠ですよ」の弊害

私は小学生のころから、母親に連れられてキリスト教の教会に通った。
そこで親子関係について、よく話されることがある。

「皆さんこうして今も生きていらっしゃるってことはね。それだけですごいことなんですよ。
それだけ大切に世話をされて、愛されてきたということなんですよ」


教会は本当に、神と親の愛のはなしが大好きだ。
私もこうした話を子どもの頃から聞かされて育った。そのため、母親からどんなに殴られても「私は大切にされているのだ。愛されてるのだ」と思い込み、自分の虐待被害がかなり深刻だということに気づけなかった。

結婚後、私がカウンセリングを通して自分の生い立ちと向き合って治療を進めることができたのは、親だけでなく教会と離れたことも大きかったのではないかと思う。

愛してる、愛されてるというのは当人たちの気持ちの問題でしかない。
加害者にならず、かつ被害者を延々続けず回復していくために、実際に起こっていることを眺めていくことが大切なのだと思う。

「愛」という言葉は「ただ見る」ということを難しくすることがあるし、加害者が「でも愛してたから」と言ってしまえば虐待も正当化されてしまう。

(私の母も、私に対して「愛情たっぷり注いでやったのに」と絶叫していた。でも正直私が受け取ったものは、「愛」というラベルが貼られて毒物だったと思う)

話がそれつつあるが、私は自分の虐待経験と、教会で多用されてきた「愛」ゆえに、「愛」という言葉が嫌いだ。それが「愛」がどうか決めるのは、受け取った側の人間だけだ。

3.苛烈な虐待に遭っても、人間の身体は生き延びるということ…

この国の多数派の人たちの想定を超えた虐待が、身近なところにも起こっていること。
そして虐待をする親は、我が子の成人して自らの体力が衰えたあとも、我が子の新しい幸せまで必死で壊そうとしてくること。
(私の母もそうでしたが、自覚はないようでした)

たぶん、そんなことは考えたくもないという人が大多数だと思う。自分が生きてる世界が平和だと思いたいだろうから。

でも「自分が理解できないことがあるのかもしれない」というささやかな謙虚さを、虐待サバイバーではない人たちには持ってほしいなと思う。
特別扱いしてほしいわけじゃない、ただ責めないで欲しいだけ。

苛烈な虐待を受けたとしても、よっぽどなことがあったとしても…。
人間の肉体は多くの人が考えているより強くて、肉体だけは成人まで生き延びることができるのだ
という認識をもっていただけたらと思う。

私は虐待死の世間の同情と、親から逃げた私自身への非難とのギャップに悩み苦しんでいた。20代のころは、
「私も子どものときに死んでいれば、少しはみんな、私に同情してくれたのだろうか。母も少しは報いを受けたのだろうか。どうして生き延びてしまったのだろう」
と思い悩んでいた。

もちろん虐待で亡くなった子たちは、私も経験しなかった悲惨な目に遭っていることを忘れることはない。
ただ「虐待を受けた上に、第三者からも責められ続ける」ことが、死にたくなるほど辛かったのだ。

私は虐待サバイバーとして、特別な配慮を求めているわけではない。
ただ虐待被害者たちが、第三者から責められ、追い討ちを掛けられ、さらに苦しむことがなくなって欲しいと願っている。

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