宗教虐待について書けるのは、それを過去にできたから


1.実は私、楽しく暮らしてるんです…

ここ1ヶ月ほど、自分の生い立ち(主に母から受けてきた宗教虐待、教育虐待)について書いてきました。
noteの中の私は、高校をようやく卒業したところです。大学でいよいよメンタルを壊すのですが、その後はキリスト教を相対化し、虐待からくるPTSDと向き合い、少しずつ回復していきます。

(回復については、宗教2世篇が終わったら「PTSD治療編(仮)」として書く予定です)

noteを更新しながら、密かに心配していることがあります。
「私、今ものすごく不幸でどん底な状況にいる人だと思われてたら、それはそれで申し訳ないな」と…。

私の体調は基本的に安定していますし、日々小さいことに楽しみを見出して暮らしています。

普段の私は、ひとりでイオンモールに出かけては100%なかで迷ったり…。
(お店に入った瞬間、自分がそれまで左右どちらに向かって歩いていたのか分からなくなるレベル)

子どものカレーのごはんに、アンパンマンのご飯を作ろうとしてハム(アンパンマンのほっぺの材料)がないことに気づき、ウィンナーを輪切りにしてほっぺを作って自画自賛したりして暮らしています。

ただ、この夏ちょっと残念だったのは、ミニトマトの栽培がうまくいかなかったこと。
上手な人のミニトマトを見せてもらったら、枝をかなり剪定していて、茎も枝もすごく太いんです…知らないことばかりだなあと。

2.私が宗教虐待について書けるのは、過去のことにできたから

1ヶ月まえ、なんとなく自分の受けてきた宗教虐待(時々教育虐待も)について書いてみました。
つらい記憶のはずなのに、思ったほど文章にするのが苦ではないので、そのまま更新を続けています。

書き続ける中で、私が自分の回復を実感できたのは、
「私の身に起こったことを、時々脱線しつつも、大体時系列に沿って書けている」ということです。

私は数年前、3年間トラウマ治療を受けました。
その中で気づいた、トラウマ記憶の特徴があります。それは自分の意思で記憶の出し入れができないことです。

思い出したくもない記憶が前触れなく襲いかかってくるかと思えば、思い出したいことなのに記憶にロックが掛かったようになって出てこなくなるんですよね。
そこに時系列だとか、現在からどの程度遠い記憶かということは関係ありません。

逆に今回、時系列で書けているということは、私が何を思い出すかを決めるという「記憶の主導権」を握れているということなんです。

もちろん、書くことで苦しかったことを思い出して、当時感情を麻痺させていたぶん腹を立てることもあります。
ただ今思い出すことで、自分を改めて労うこともできています。

3.苦しんだ伝統キリスト教2世が、最初から存在しないように扱われること…

とはいえ、私はやはり悔しいのです。

私は伝統キリスト教の2世です。
伝統キリスト教にも2世問題はあります。

(私は長らく名前のない苦しみを感じてきましたが、山上容疑者の事件のあと、伝統キリスト教2世にも苦しんでいる人がいることを知りました)

それにも関わらず、一部牧師さんたちは「カルト2世」と「クリスチャン2世」を分けたがったり、
(発信してるだけマシなのかもしれませんが)
一部クリスチャンは、カルトのせいで私たちまで誤解されて迷惑と被害者ぶったりしています。

私はキリスト教界が変わるとは全く思っていません。
ただ私が我が身に起きたことを書き残して行けば、私の経験はなかったことにはならない。
そんな気持ちで少しずつ、noteに書いています。

誰も何も書かなければ、言わなければ、苦しんだ2世は最初から伝統キリスト教には存在しなかったことになってしまうなと。
使命感はとくにないけど、ただ悔しい。やっぱり悔しいのです…。

この悔しさは、おそらく私がさらに回復しても残るんだろうな。存在しないことにされているんだから。

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