私が教会に疑問を持ちながらも、教会で挙式した理由

「一般のクリスチャン2世として育った私が、クリスチャンでない夫と結婚した話」のシリーズみたいになっている、このnote。
今日は色々すっ飛ばして、私の結婚式の話をします。

結論から言うと、私は教会で結婚式を挙げました。主人の義実家はこころよくOKしてくれました。
(母よ、何が愛だ。義家族のほうが譲る心を持ってるぞ)

ただ、過去のnoteでも書いてきているように、私は神にも教会にも疑問を抱いていたし、この先きちんと教会生活を送る気はありませんでした。
それでも義両親や夫に頼んでまで、教会で式を挙げた理由を今日は書いてみます。

私自身の気持ちの問題と、いわゆるクリスチャン1世である母の問題です。

私の心はくちゃくちゃだった

まず私自身のことを言えば、信仰については結論を出せないままでした。
教会生活を送りたいとは思えないけど、教会と縁を切る覚悟まではないという状態です。

教会で結婚式を挙げない
=正式な結婚ではない
=姦淫の罪


というのが教えにありました。
(余談ですが、教会で式を挙げるまでは、入籍や同居はできない決まりになっていました)

当時の私が、姦淫云々を素直に信じることはありませんでしたが、
(信じる人を否定しているわけではないです)
「ああ、教会で式挙げないと、2度と教会と関われなくなるのね」という気持ちにはなりました。

教会と関わりたくないのに、関われなくなるのは不安…。矛盾しているようですが、子どものときから通った教会って実家みたいなものなのです。
(私は実家とも良好な関係を築けていませんが)

実家が自分にとって居心地が悪くても、そことの交流をやめるにはそれなりの覚悟がいりますよね。教会も私にはそんなところがあり、関係を切る覚悟はできませんでした。

教会で式を挙げてから、教会に行くのをやめることはできる。
でも、教会で式を挙げないことで教会と関係が切れてしまって、後で後悔しても式を挙げなおすことはできない。

そんな気持ちの揺れのあとで、教会で挙式することに決めました。
正直こんな気持ちで決めたことは、申し訳なかったです。神や聖職者に対してではなく、夫や義両親、式に来てくれる人たちに。

神に対して何も感じなかった時点で、当時の私はもう信仰を手放しつつあったのかもしれませんん。

(次のnoteでも書きますが、私もそんな気持ちを変えてくれたのさ、お客さんとして来てくれた人たちでもありました)

そして、もう一つは母側の事情でした。

私が教会で結婚しないと、居場所がなくなる母

私のいた教会では、2世以降の結婚に暗黙のランクがありました。

私の母も、娘である私が教会で挙式しなければ、我が子の結婚を教会で報告できなくなってしまいます。
教会コミュニティに狭く依存している母が、そんな事態を受け入れられるわけもなく…。

私も単純に、それは母が可哀想だと思った部分はありました。
身体的にも精神的にも、暴力ふるいまくりの母でした。でも居場所がなくなるのはさすがに可哀想になりました。

この件で情緒不安定がひどくなっても、しんどくなるのは私ですしね。

(母よ。関わりがあるあいだ、ここまで私は譲ってきたのだよ…。
 それでももう、私はあなたと関わり続けるのは限界だったのよ)

結婚するまでは、母に譲るだけゆずって、あとは自分の人生を生きると決めていました。

そんなこんなで教会で結婚式を挙げ、結婚後の挨拶まで教会ですることになったのでした。
それも夫同伴で…。
夫は母の気質を理解していて、私のために母の顔を立ててくれたのでした。

結婚後いろいろあったけど、夫と夫の家族には感謝しかありません。

結婚をめぐる両家のすり合わせ(ほぼ私の母のわがままを通した形になってしまった)を通して感じたこと。
それは、クリスチャンとして世の中を見下している母よりも、ノンクリの夫家族のほうが、相手の事情を考えてくれている人たちでした。

(すべてのクリスチャンが相手のことを考えてないとは言いません。
 でも「自分たちを尊重してー!」と自分本位になりやすかったり、尊重して譲ってくれた相手への感謝が薄くなりやすいかな。
 中の人たちを見てきた経験から思います)

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