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クリスチャン2世(元)が読むジョイス『ユリシーズ』

※追記:記事の末尾に、過去私が書いた『ユリシーズ』関連のブログ記事を載せました。(2023/02/18)

1.宗教2世と少し重なる、ジェイムズ・ジョイス

私が心を壊して動けなくなったのは、母親による身体的・心理的・宗教的虐待が私のキャパを超えたことでした。
中学生の時点でボロボロでしたが、大学入学までは、騙し騙しで動いてきました。しかし、とうとう動けなくなったのです。

毎日、支障なく動き回れるまでには数年が掛かりました。その間の私は、精神科の薬にくわえて、幸運にも心理療法を受けることができました。 

私が「あ、よくなってきたかな」と思えたのは、本の内容が頭に入ってくるようになったことでした。
ただ当時は体調の波が激しく、安定して何かに取り組むのは難しい状態でした。
そこで家のことをする以外は、調子のいい時に海外文学(私の知識の限界で、欧米止まり)を読むようになりました。

そんななか、キリスト教との向き合い方を一番教えてくれたのは、ジョイス『ユリシーズ』です。
『ユリシーズ』は、いわゆるキリスト教小説ではありません。
(何がテーマかと言われてしまうと、難しいな…。)

しかし、作者のジェイムズ・ジョイスもまた、信仰を深めることを期待されながら、それができなかった人物なのです。
ある意味(適応できなかったほうの)「宗教2世」に重なる経験をもった人物かもしれません。

さてジョイスは、カトリック国であるアイルランドに生まれました。成績優秀だったため、イエズス会が運営する学校に学費免除で転入します。
(この間、実家が没落したり色々あるけど、そこは割愛します)

ジョイスがこの学校に招待されたのは、のちに聖職者になることを期待されてのことでした。しかしこの学校で彼が神への信仰を深めることはなかったと言います。

(wikipediaの記述より。私が途中まで読んでいる『若き芸術家の肖像』にも、そんな記述がありました。『若き芸術家の肖像』の主人公スティーブン・ディーダラスは、『ユリシーズ』にも準主人公として登場します。
スティーブンのモデルはジョイス自身です)

信仰的な期待を背負わされながらも、そうはならない道を選んだジョイスに、私は勝手に勇気をもらいます。100年前にも、選んだ人がいたのです。

2.『神』って、おちょくって良かったんだ!!

そんなジョイスの生い立ちを知ったのは、『ユリシーズ』を読んだあとでした。
それでもジョイスが示した、とある人物のセリフに私は衝撃を受けました。
(数年前で言ったら「びっくらぽん!」)

『ユリシーズ』の最初のほうに、スティーブンの親しい(けど複雑な)友人マリガンが登場します。そのマリガンは、あれこれ言葉遊びをしてしゃべり散らしていきます。
その中にはキリスト教(この人たちの場合はカトリック)の教えに対するものも含まれていて、
「俺の父さんは鳥さ♪」みたいなことを言っているのです。

(えっと、小説の舞台はアイルランドのダブリンです)

この言葉が(元)クリスチャン2世にとってどれだけ衝撃だったかというと…ぼちぼち説明させてください。

まず、
・俺=イエス・キリスト。
・父さん=全知全能の父なる神(キリスト教の神)
・鳥=聖霊

を指しています。

そしてマリガンのセリフは、聖書の、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときに、聖霊が鳩のような姿になってイエスのところへ下ったという記述から来ています。
キリスト教には「三位一体」という概念があります。「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊」は一体である、という教理です。

私は子どものときから、この教えを神聖なものとして叩き込まれていました。
その「三位一体」をおちょくる文章を100年前に書いた人がいる。

マリガンの冗談は、キリスト教のことでウジウジ悩み続けてきた私に、スカッと風穴を開けて、青空を見せてくれました。
(ちなみに『ユリシーズ』は、そんな爽やかな小説ではない…)

私もジョイスも一応はキリスト教社会で育ってきたはずだけど、私はこんなに知性のキラっと光った、笑える世界を見たことがなかったなあと。

(一応ツッコむと、スティーブンもマリガンも教会は行ってないと思う。
こんなことを教会で言えば叩き出されて、親がヒソヒソされただろうとも思う)

私はキリスト教の神を信じるにしろ、信じるのをやめるにしろ、真正面から組み合うことしかしてこなかった。それは苦しいよね
苦悩してる自分のすがたが、クスッと笑えてきました。

『ユリシーズ』は、私の苦悩に答えをくれたわけではありません。でも確かに、いつのまにか背負わされてきた私の重荷を軽くしてくれました。
「わたしの荷は軽い」と言っていたキリストよりも、ずっと。

3.冴えないし、残念だし、トラブルもあるけど悲惨ではない日常

ここからは直接キリスト教とは関係のない話ですが…。
作家志望のスティーブンの日常は冴えません。作家で食べていくことはできず、ダブリンの文化人のサロンには自分は招かれず、マリガンは招かれている。

スティーブンの1日は、「うわ、残念だわ俺…」みたいな出来事が、ずん、ずん、と頭の上に積み重なっていくような感じがします。
でも、それを読んでいると何故かクスッと笑ってしまう。
1日の最後には大きなトラブルも起きるのですが、それはさておき。

私が今日書いてきた『ユリシーズ』の読み方は、正当ではありません。
『ユリシーズ』で有名な、「意識の流れ」や「文体」などの話は一切してきませんでした。
そもそも主人公ブルームの話も、一切していません…。ひとつくらい、こんな感想文があっても良いかな。

ただ私が『ユリシーズ』を通して、ジョイスから教えてもらったのは、ユーモアと、クスッと笑えるということ。
宗教やままなはない自分の人生、そうやって向き合う方法もあるということを。

過去、私が他のブログで『ユリシーズ』について書いた記事です。
沢山書いててビックリ…自分のことだけど、本当に『ユリシーズ』が気になって仕方がなかったんだなあと。

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