私が虐待されていると気づけなかった、宗教的な背景


私が母から激しい虐待(暴言、暴力)を受けながらも、ずっと自分が虐待被害者だと気付けずにきました。

そもそも子が親を疑うことは難しいです。
さらに私の場合、母が(いわゆるカルトではない教会に通う)クリスチャンだったことも背景としては大きいです。
私自身がある程度の年齢までは教会の大人たちの言うことや聖書のことばを「良いもの」だと信じてそのまま受け取っていたというのもあります。

教会で示される価値観は、健康な親子関係であればそこまで害はないのかもしれません。
しかし、教会で示される次の三つの価値観を信じ込んでいると、クリスチャンである自分の親が虐待するような人間だなんて思えなくなるんです。

1.「クリスチャンはいい人たち」だという思い込み
2.子どもの時から神様を知ってるのは、幸せに違いないという刷り込み
3.親という存在と素晴らしさを語る、聖書のことばたち

実際私のいた教会では、子どもが精神を病んだ時に精神科の薬を取り上げる親がいました。
(私も母からの攻勢に根負けして、治療を中断することになりました)
薬を取り上げられても、子ども(成人済み)のほうが親をひどい親だとは思わないことがあるんですよね…。

それでは先に書いた3つ、順にお伝えしていきます。


1.「クリスチャンはいい人たち」だという思い込み

「教会は罪人の集まりです」という言葉、私も教会では(でも?)よく聞きました。も実際心の中では教会にいる人はみんな「教会にいる人たちはいい人たち」だと思っていたと思います。
母も「素晴らしい方々の集まりだ」とよく言っていました。

そんな空気を浴びながら育った私は、その一員である母のことも「良い人にちがいない」と信じ込んでいました。私自身のことは「いい人間」だと思えていなかったのに不思議ですよね…。

でも実際の教会には、クセの強い人もいます。思いやりのある人もいれば、ない人もいます。
弱った人に対して、一般社会の人も言わないような失礼なことを言う人もいます。
つまり教会は「素晴らしい人たちの集まり」でも何でもなくて、その中に「虐待する親」がいることは不思議でもなんでもないんですよね。

私にとって厄介だったのは、母自身が、
「自分は教会コミュニティとい素晴らしい人たちの一員であり、つまり母自身も素晴らしい人間である」
と強く信じ込んでいた
ことです。

母の子育ては、実際には暴力とキリスト教の罪と地獄とに基づいて脅しでいっぱいでした。
母には自分のやっていることが子どもを追い詰めていると気づくチャンスが何度かあったはずです。でも結局、この思い込みを優先して自らを省みることはありませんでした。

私が何を言っても、教会のお母さんたちは皆いいお母さんたちだという謎根拠で反論されました。
(子どもの精神科の薬を取り上げる親とか、絶対いい親じゃないと思うけどね)

2.子どもの時から神様を知っているのは幸せに違いないという思い込み

子どもの時から教会に通っていると、主にクリスチャン1世の大人たちから言われます。
「子どものときから神様を知ってるなんて、幸せよね」と…。
当の私は「言うほど知らないけどな…」と思っていましたが、何度も言われると「私は幸せなんだ」と思うようになりました。

最終的には「自分は幸せなんだと思わなければいけない」と思い込んでいました。
ただでさえ大人の顔色をうかがわないといけない環境で育った上に、自分が幸せかどうかを他人に決められるのはしんどいです。

神様が母の虐待から守ってくれたことなんて、一度もなかったのにね。
自分が何に幸せを感じるかは、自分で決めて良いことなのにね。

3.親の素晴らしさを語る聖書のことばたち

3-1.あなたの父母を敬え。(出エジプト記20章.3-17節より)


こちらは聖書に親しんで(親しまされて)育った者にはテッパン、モーゼの十戒の4番目です。
教会学校(日曜に教会で教えについて学ぶ時間)でそこまで強調されることはありませんでしたが…。
でもこの教え、神に関することのすぐ次に来ていて、「殺してはならない」(十戒の5番目)よりも先に言われてるんですよね。時代がだいぶ違うとはいえ、なんだかな…。

そして私が最も影響を受けた聖書の言葉は、新約聖書にありました。

3-2.「求めなさい、そうすれば与えられる(マタイによる福音書7章7節)」からの…

私が母をどうとらえるかで縛られ続けた、聖書の言葉はマタイによる福音書7章7-11節です。引用します。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。
そうすれば、開かれる。 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。
まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

マタイによる福音書7.7-11

(改行、太字はちくわぶぶによる)

イエスは天の父である神の愛を伝えるために「親というもの」の愛情深さを語ることが多いです。

私は小学生のときから、この言葉を何度も読んできました。
(私が母に連れられて教会に通うようになったのは小学校のときなため)

その状態で虐待にさらされると、子どもの心には何が起こるか。

親に殴られようが蹴られようが、延々暴言を吐かれようが、ひどい親だと思うたびに、
「(親が)魚を欲しがるのに、(子どもに)蛇を与えるだろうか」
という言葉が頭をめぐりました。

私は、母は「いいものを与える」ために、私に体罰を与えているのだと自分を洗脳していきました。
ただし一向に母からの暴力から助けてくれない神については「神こそが、魚を求める子(私)に蛇を与える存在なのではないか」と怒りを覚えることも多かったです。


4.教会内部の過剰な性善説は、虐げられた者を追い詰める…

聖書のなかも、教会のなかも、語られるのは愛に溢れる親のことばかりです。教会のコミュニティには、虐待する親は最初からいないのだという世界観が出来上がっています。
そんな中で母の虐待に気づくことは難しかったし、気づいたときも、ただただ混乱しました。

そして、自分が虐待を受けていると自覚できないままでいると、そのまま暴力暴言を受け続ける人生が待っています。被害を自覚することで初めて、戦うなり逃げるなり、対処ができるようになるからです。

(私は最初は戦いましたが、母の周りを巻き込む能力には叶わず、逃げて自分と今の周りの幸せを大切にすることを選びました)

今の私が教会に求めるものは特にありませんが、教会内の実態に合わない過剰な性善説は、コミュニティの中にいて虐げられている人たちをより追い詰めることだけは書いておきたいです。

これはクリスチャンである親からの虐待だけではなく、神父や牧師、有力信徒からのハラスメント被害にも言えることだと思います。



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