宗教2世問題は教団のせいなのか、親のせいなのか

10月29日、NHKスペシャル「宗教2世を生きる」(ドキュメンタリー)が放送されました。

宗教2世をテーマにしたドラマは11月3日(祝・金)に放送されるそうです。

今日は放送内容からから私が受け取ったことを綴ることにします。

1.カルトにハマった親がいるということ…

29日の放送で取り上げられたのは、統一教会とエホバの証人の2世です。
まず私が放送で改めて「そうだろうな」と感じたのは、「宗教2世の結婚問題」に触れられたことでした。

放送の中では何人もの当事者が登場してくださっていましたが、その中で統一教会2世の女性と、エホバの証人2世の男性が共通して話していたことがありました。

それは(本人たちは信仰がなくなったとしても)一般社会の人と結婚することは難しいということです。

・親が多額の献金で金銭問題を抱えてて、その援助をしている自分が結婚できるとは思えない。(統一教会2世)
・付き合っていた女性から、家族が宗教を信じているせいで結婚は考えられないと言われてしまった。(エホバの証人2世)

私はキリスト教2世ですが、世間のキリスト教へのイメージが実態よりも良いため、結婚相手との関係で苦労したことはありませんでした。
ああ、きちんとしたお家のお嬢さんなのね、と言う感じ。

宗教にハマった親がいるという事実が2世本人の社会生活に与える影響は、やはり伝統宗教よりもいわゆるカルトのほうが深刻なのだなと改めて考えさせれました…。

そしてこうした事態は、親のせいなのか教団のせいなのか。


2.宗教2世問題は、親のせいなのか教団のせいなのか

統一教会現役2世と元2世との対談のなかでも、親の問題にしてしまいたい現役2世、教団にも責任があるとする元2世とで分かり合えない場面が映し出されていましたね。

(元2世の方の心理的負担が心配になりました…。
また教団の責任を受け止められない人が職員をやっている時点で改めて、統一教会の搾取や人権侵害が改善することはないことを確信しました)


私も自分の宗教2世としての苦しみは、どこまでが親のせいで、どこからが教団のせいなのか、悩ましく思ってきました。

私の母はキリスト教に出会わなくても凄惨な暴力を振るって私を育てただろうと思うからです。
また私のいた宗派の場合、親が子どもに比較的自由にさせている人もいるので「たまたまあなたのお母さんの問題でしょう?」と言われたら反論できない自分もいます。

また伝統キリスト教の場合、1世は(きっかけや救いを求める苦しみがあったにせよ)自ら教会の門を叩くことがほとんどです。
統一教会や他のカルトのように偽装勧誘で騙されるわけでも、エホバの証人のように個別訪問で勧誘されるわけでもありません。
親の側の選択肢が、カルトの親たちよりも多い。

でも教会にさえ出会わなければ経験せずに済んたこともあったし、母の虐待が悪化することもなかった。これをどう整理したら良いのかは、私の長年の課題ではありました。


3.子どもからサインが出たとき、宗教よりも子どもを選ぶことができるかどうか…

そのヒントを示してくださったのが、エホバの証人2世の"ゴンさん"が、ゴンさんの親世代の2人の方と対話をしていた場面でした。
現在信仰を離れた元エホバの証人信者の女性と、現在も信仰をつづけている女性です。

信仰を離れた女性は、子どもから子ども自身の現状を言葉にされて、やめた人でした。
一方、現在も信仰を続けている女性もゴンさんに温かい言葉を掛けます。しかしゴンさんから、
「私が排斥されていたら、会ってくださいましたか?」と聞かれて、自分の言葉で答えることができません。

私は、信仰をやめた女性の話をきいて泣きました。そのとき、宗教2世問題が親のせいか教団の問題かという問いへの答えが見つかりました。

教団の教えやコミュニティ内の空気が、たとえば子どもの生育環境を悪化させている。
子どもへの暴力を定めている。
子どもから子供らしい時代を奪っている。
恐怖で脅して選ぶ自由を奪っているとき…
そして母親に子どもに宗教活動をさせるようプレッシャーを掛けたりしているなら(他にももっと、あるでしようね…)、それは教団の責任だと思います。

でも親が問われるのは、
我が子が楽しそうではないとき、
我が子が何らかのサインを送ってきているとき、
我が子が心身の調子を崩すなど異変があったとき、
どうするかなのだと思います。

そこで子どもを取ることができるのか、宗教を優先してしまうのか。この領域は、親が選ぶべき領域なのではないかと思うのです。

私が母と付き合っていくのが難しいと感じたのも、結局ここなのだと思います。
私の母は、私が心身を壊そうがただ自分の世界や立場を守ろうとすることしかしませんでした…。



4.私が母と会えない理由
〜私を宗教の道具として扱う母に、二度と打ちのめされたくないのだ…

勿論、これはあくまで私はこう整理しましたというだけの話なので、正解ではないと思います。

それでも、私がなぜ今も母と交流をもつことができないのか、自分についての理解を深めることができてありがたかったです。

私の母は老いて体力も衰え、もう身体的暴力を振るうことはないと思います。言葉の暴力は投げつけてくるでしょうが、今の私なら反論もできるでしょう。

しかし母は今でも、私や私の子どもたちを教会コミュニティで見栄を張るための道具に使おうとすると思うのです。私は母を諦めることで、低空飛行ののろのろ歩きながらも、なんとか人生を進めてきました。
これで母に会うと、再び私よりも宗教での立場を優先する母に打ちのめされなければいけません。自分を道具として扱われる感覚は、殴られるよりも辛いものです。

影響を受けた宗教がちがっても、歩んできた人生がちがっても、その方の歩みを通して自分自身の理解が深まるって不思議ですね。

賛否両論ある今回の番組ではありますが、取材を長年つづけていらっしゃる記者の方も、おそらく新たな痛みを覚えながらも取材に応じてくださった当事者の皆さんに心から感謝いたします。

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