「水星の魔女」とは何だったのか

といいつつ、自分は最終回含む終盤3話を観ていない。

去年の10月から始まったガンダム久しぶりのテレビシリーズが、7月2日をもって最終回を迎えたわけだが、個人的には非常に複雑な気持ちでいる
直前の21話でかなりの負の感情を抱えたというのもあると同時に、これまで幾度の作品を作り上げてきた人物が、ここまで露骨に窮屈そうな作品を作り上げることを良しとするわけがないと思ったから。
事実、最終回を迎えた直後のSNSでの感想は、
「尺が足らない感じだったけど良い最終回だった」
「この製作期間でよく纏めた」
といった忖度ありきの評価で成り立っているところを、当事者達が自覚していないわけがない。
この作品に一体なにがあって、何が出来なかったのか。



21話で観るのをやめた理由

今年の1月にシーズン1を終えた時は非常に好印象だった。
子供たちが大人達の倫理観によって左右されてしまう残酷な世界。
幼いが故に見出すことが出来た希望(ガンド医療)が、大人達が構築した社会によって無残にも打ち砕かれる。
その子供達もまた大人達のようになっていく過程で、もがき、苦しむ・・・第12話で見せつけたスレッタの無感情な攻撃とそれを受け入れることが出来なかったミオリネの構図は、この作品ならびにガンダムが持つ兵器という側面を強く押し出したものだった・・・・と思っていた

しかし実際には第21話でノレアやペトラといった戦闘の末に被害を受ける展開が、新しいMSを登場させるためだけに機能していた展開でしかなかったということで「ああ、そもそもその気は無かったのね」と気持ちを改めたというのが大きい。
それまでもシーズン2になってからやたらと物語を進ませようとする省略が目立っていたうえ、
かと思えばラウダが突然ミオリネに対して怒ってシュバルゼッテを使って兄弟げんかを始めたりするなど、残り話数も少ないというのに本筋とは離れたことを突然やりだす滅茶苦茶さには、観た時怒りすら覚えた。

以降はTwitterでの反応を見るぐらいが丁度いいやとなったわけだが、
ソーラレイやフェンシングやら・・・若者向けと言いながらなんで過去ガンダムのお約束を入れようとしているのか理解に苦しむ
しかし同時に、ただの凡人である自分がそう思うのなら、現場で必死に製作しているチームの中にもそのことについて気付いてはいるはずでは?ということも考えるようになった。



製作の遅れから想像できること

この作品はシーズン1終了間近の時に配信媒体での放送を延期させたりしている。
シーズン2では二連続でそれが起こっていたことと、製作チームにかなりの数のスタッフを急遽呼び寄せ、なんとか間に合わせたというのを複数回起こしている。
当然、線が多いメカものであるからそういった製作スケジュールのキツさも当然といえば当然であるし、それでも形を成そうとしているクオリティの意志があるのは確かだ。

しかしながら脚本上、ありとあらゆる場面で描写を急かしている部分がシーズン2から散見するようになってから、
そもそも製作スケジュール自体に問題があったのではという想像もしてしまう
特にグエルが地球でゲリラ活動しているフォルドの夜明けとの交流を描いた後の第16話以降の流れ。
グエルが何事もなかったかのように一話で地球からの帰還を果たしてしまう展開には、おそらく誰もが「展開早すぎ」と思ったに違いない。
第17話でのミオリネがスレッタに事実上の絶交を言い渡すシーンの「そこまでする必要ある?」と思えるほどクリフハンガー的終わり方で締めくくり、第18話冒頭でのスレッタはミオリネにも事情があるんだということで無理して平静を保とうとしていたりと、決闘に負けた事実さえ成立すれば普通に離れ離れに出来ただろコレ

ペトラの負傷する前のスレッタに対する突然の意図不明なわざとらしい長い台詞や、ノレアと5号の痴話げんかにも等しい粗末な会話劇など、
誰が見てもおかしく見える部分を製作がわかっていない訳がない
それほどまでに切羽詰まっていたということを考えると、そもそもガンダムというコンテンツそのものが抱えている病気というのも疑いたくなる。



ガンダムであるが故に

初代ガンダムにおいて、スポンサーである玩具会社(クローバー)とのやり取りがあったというのは有名な話。
しかしガンダムがここまで続けられたのも玩具(ガンプラ)のおかげ。ガンダム原作者である富野由悠季監督は、仕事として当然の関係であるという視点から、ガンダムと玩具会社の現在を見つめている。

しかし一方で昨今のガンプラ市場の拡大から、新規作品発表と同時に発売されるガンプラが発表されたりすることが当たり前で、フライング的に登場するMSがわかってしまうぐらい玩具の展開が早い。
シーズン1終了の時点で、既にシュバルゼッテといった未登場の機体が続々と発表されていたりするぐらいなのだが、当然のことながら出す以上は活躍することが確定的である
この作品の脚本が放送中にどこまで出来ていたのかは不明だが、
あらかじめ玩具展開および話数を決められたうえで製作しているとしたら、かなりキツめのスケジュールにならざる得ないというのは想像しやすい
指定された数の登場MSのデザイン及び作中での活躍と、それに至るまでの物語の構成・・・。
シュバルゼッテに乗ることになるラウダの素っ頓狂なキレ芸しかり、終盤に至っても尚MS、しかも主人公が乗る新規機体のキャリバーンの登場しかり、
この作品に似合うほどの展開だったかという疑問は残る。



「水星の魔女」が狙っていたもの

女性主人公という部分が注目された作品ではあったものの、それ以外にもグエルのトロフィー発言や差別、格差、戦争といった部分に関しては光るものがあった。
特にソフィやエラン4号が言い放った"不平等性"という部分は痛々しいぐらいのものであったと同時に、明らかに物語はその理不尽な世界の構造について語っていた。
しかしながらクワイエットゼロと呼ばれるプロスペラの計画が明らかになっていった終盤は、どこか当初描かれていたところから離れた位置で主軸をやろうとしているようにも感じた

ソフィやエラン4号が訴えた不平等性をミオリネに痛感させる舞台づくりという意味では、弱者にあたる地球での攻防戦というのが相応しいと言えるが、
プロスペラは巨大な要塞を宇宙に用意していたという突然の設定のために宇宙に帰ってきたことで、本来救われるべき地球側が蚊帳の外へとなってしまった。
こういう「実は○○だった」ということがシーズン2になってから多く、パーメットが日常生活でも使用されるほど浸透しているというのはシーズン2の中盤のマルタンの台詞でようやく開示されたり、
プロローグでしか出てこなかったオックスアースを実に半年ぶりに名前を出すぐらいシーズン2には視聴者への伝達の仕方そのものよりも物語上の帰結を急ぐきらいがある

一応若者向けという方向性だったみたいだが、
結果論として、シーズン1で若者を引き入れてシーズン2でガンダムファンに媚びたと言わざる得ないだろう。




この、タイトなスケジュールをいやがおうにも感じてしまう描写の数々からして、
製作陣が本当に描きたかった水星の魔女は、本当にコレなんですか?と聞きたくなるが・・・。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?