『ルックバック』 近いようで遠い創作者と消費者
未読ながら「チェンソーマン」の噂はよく聞く。
映画好きな作者が描くバイオレンス漫画。
トレーニングしまくって腕が肥大化した米津玄師が主題歌のアニメが国内外問わず人気であることも。
当然この「ルックバック」も話題になっていたのも知っていた。
漫画家が漫画家を題材にしている作品となれば、やはりそこには漫画家藤本タツキの経歴や思想が反映される。
漫画家になる少女の物語ながら、その動機や姿勢は虚栄心だったり嫉妬だったりと、一概にポジティブなものでもない。
大義名分で何かに打ち込み続けるのは難しいし、むしろ無理なのではないだろうかというのが個人的な考え。相手を蹴落とすことや自らの欲求といった負の感情が創作活動には欠かせないものかもしれない。
そういったネガティブながらもスキルアップに繋がる感情を抱きつつ送る学生生活には様々な壁にぶち当たる。
周りからの評価、自分より才能がある存在との邂逅。
90年代後半から2000年代初期には些細な理由で気持ちの悪いの代名詞として貼られた「オタク」のレッテル貼りは、狭い社会の学校生活の中では特に避けなければならない悩みがあったのは事実。作者の藤本タツキの世代が経験した苦しみというのが反映されてると思われる描写。
それでも創作活動を続けるキッカケになったのは身近にいながら同じ趣味、同じ向上心を抱えていた者同士が通じ合った喜び、それも互いが互いを認め合う対等な立場からなる関係性。
しかもそのキッカケが勘違いから始まるものというのが人間らしくもあり、初々しくも生々しい。
2000年代初めの、ネットが今よりも普及してなかったが故に起きた、顔と顔を見合わせて互いの作品の感想を言い合う喜び。
それは時代の流れと共に“実体感の無いどこか知らない他人”という冷たいものへと変化する。
それは競争率激しい漫画業界に身を投じていく中で加速していく。
故郷の田園広がる“地上”ではなく、空とビルしか見えない高層階に位置する漫画家となった藤野は、
ネットが普及して他者(読者)と近いようで遠い時代になり、日々アンケート結果(集英社のジャンプでよく話題に上がるアンケート主義)に怯えながら漫画を描く。
学生時代の「何のために絵を描いてるの?」という会話が懐かしくなる。
作中で起きた事件については記憶に新しいあの事件を彷彿とさせる。
あの事件について第三者である我々が怒りや悲しみを抱くのは当然であっても、あの凶行に至った感情は、恐らく全てのクリエイターが全否定出来るものでも無いと言えるかもしれない。
作中における藤野が漫画製作のためにクロッキーをやり始めた感情もまた、あの事件の犯人が抱いたのと同じ嫉妬心だから。
作品内では事件に対する是非は描かれない。
「やるせない」という感情だけが残る中で、やはり原点に立ち返って(ルックバック)自分が漫画を何故描き続けるかと問いただす。
あの日あの時代、クラスの皆に自分の絵を見てくれたあの時。
自分より上手い人に出会ったあの時。
その人に「読みたい」と言われたあの時。
失って初めて気付かされる“見えない愛読者”。
その人達のために描く。
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