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君の愛の裏面に住みついて

君の愛の裏面に住みついて、凍えることなく過ごそうなどと虫のいい考えを抱いたわけではない。月の裏面と背中合わせに虚空を見つめて、君の愛への眼差しを決して得ることはないという選択をしたのだ。確かに月もまた自転している。けれど、地球には自身の裏面を見せることはしない。それが意味するところを君に知らせるのは胸が痛んだ。君もまた僕と同じで、僕のいるところへは決して辿り着けないからだ。せいぜい互いの愛を裏打ちするための受苦を進んでこの身に引き受けようとするぐらいだろう。銀色の光の雨は僕たちが息をすることを許さない。砂埃と雨の差を、塵と雨の差を、限りなく零に近づけていくしかないのだ。雲は一向に眼差しの神秘を宿さない。そう、星の裏面と同じで、愛の裏面というのは存在しない。たったひとつの、見ず知らずの誰かの眼差しが、この宇宙のどこかで生まれた瞬間に獲得された見せかけでしかない。それでも君のもうひとつの愛を確かなものにするために仕方なしに僕は移住を決心したんだ。もうかれこれ千年の時が経とうとしている。時は薄く引き伸ばされた君の幸せとほぼ一致するまでに至った。君の凝縮された不幸がダイヤのように僕の手元に残された。僕は手のひらで君の不幸を転がし、口の中に含んで味のしない感触を舌先で確かめ、誤って飲み込んで君の不幸を消さないようにと慎重に事を進める。いつか君に返せる機会が訪れることを願って。君からもらった手紙や日記、写真の数々はすべて大切に保管してある。銀色の裏面はそれ自体で空虚な保管庫なんだ。過去がないから。何も過ぎ去ってはいないから。僕の記憶の薄氷とはえらい違いだ。決して割れない。破れることも、燃えることも、忘れられることもない。月の柔らかく優しい灰に覆われて、時の選別を免れている。僕の薄汚れた手だけが思い出のかたちを元の状態のまま取り出せる。信じてくれ。これもまたいつか君に返せる機会が訪れることをただひたすらに願っているんだ。君がそれをもう欲しないことぐらいは知ってるさ。月の表面には必要のない温もりと冷たさ、その両方を合わせ持つ、僕だけの、僕にしかなし得ない、君への愛だからね。でも、ほら、月の裏面から見上げる宇宙は……無限だよ。

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