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水銀の春

水銀の春が溶けていくところ、あなたの地平線に沈み込もうとする夕陽に照らし出された長い長い影をわたくしが思いだそうとするとき、あなたの真っ黒な影の闇のなかに一輪の青い小さな花が現実には見えなかったはずのものであるのにあまりにも鮮やかに幻影となって浮かび上がってくるのです。その生々しさにわたくしは濡れてしまいます。神の住む泉に溺れて、あなたの彼方を見つめる瞳を思い起こそうとすると、水の沁み込む皮膚が喘ぎ始め、諦めとともに漆黒の闇の底、遠く離れていくあなたをつなぎとめておこうとあなたの大きな背中の影を踏んだときに足をとられ吸い込まれていくような感覚を抱きながら、水面に漂うゆらゆらと揺れる光の帯からも、水中で屈折しているぼーっと明るい光の広がりからも遠ざかり離れていくようにして深く深く沈みこんでいく。それはあなたに溺れたわたくしの行く末。死にゆく眼差しを光に向けて息を引き取るわたくしの運命。なぜ、青い小さな花だったのか、それは分かりません。ただ、あなたの幾筋かのか細い皺を刻む微笑みや、晴れ渡る水色の大空のもと、自らの身体を突き破るかのように力強く、おそらくは痛みを伴うであろう初春の樹木が瑞々しい淡い色の緑の若葉を芽吹かせて風に揺すられる度に葉ずれの音を波立たせ、光の粉をまぶすのを眩く目を細めるようにしてずっと見つめているあなたの仕草、そうしたひとつひとつ些細なものを脳裏の敏感で滑らかな表面に焼き鏝を当てるようにして過剰な光の溢れる映像を刻印しようとむやみやたらと足掻いたあげくのふっと中空で途切れた錯乱だったのでしょうか。あんなにも青く、黒い闇のなかで輝く小さな花。わたくしの青白く靄のかかった部屋のなかにはまだあなたの手首のところで漆黒に切断された闇のなかでもくっきりと肌色の輪郭が明るく浮かんでいる何か丸いものを包みこんで優しく撫ぜるように微妙に五つの指を折り曲げた手の写真が衝立に飾ってあります。今日の朝はつがいの鶫が開け放った窓からいつの間にか入り込んできてあなたの手の写真の前で翼を休めておりました。今にも飛び立とうとしているあなたの手をつなぎとめておくためのガラスにつがいの鶫の求愛の仕草の数々が映しだされ、あなた掌の内で結ばれ合うのでした。自分たちの分身を見つめながら……以前、わたくしたちが鏡に映った二人の姿を見つめながら抱きしめ合うかたちを探していたときのように。

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