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金色の肌がまだ温もりに溺れている

金色の肌がまだ温もりに溺れている。たとえすべてが無駄に終わるとしても、火照っていた過去から明かりが漏れてくるのを押し留めることは出来はしない。あの日、すべては闇雲に試みられていた。塵も瞬き出来ぬほど素早く儚く消えていく試練が孤高を押し上げて、波の一刹那に愛することの選別を無効にする情動を贈り与える。見たこともない鳥の透明が地の底を天空と誤解して駆け抜けていく。彼女は言った。寝ていても、あなたのことを記憶し続けている、あなたの不在が永遠でも、記憶し続けている、あなたが私と出会うことなく別の女性を愛し続けていたとしても、記憶し続けている。今日も彼女は裸で湖を東の端から西の端まで泳ぎきる。揺曳の序曲を彼方に告げ知らせてはならないと自らを戒めて。彼女は沈んでいく宿命を一向に受け入れず、幾度も浮かび上がろうとしているうちに湖の水を干上がらせてしまう。彼女はひとり湖の底の荒野に立つ。重力が彼女に膝を屈することを強要しているというのに、彼女は既に立っていてもなお立ち上がろうとする。不思議なことが起こった。湖の岸辺だったが、今では断崖となっているところから、冷たい風が壁伝いに吹き下りてきて、彼女を足元から凍りつかせていった。氷の彫像と化す彼女。長い冬の間、不動を保ち、舞い降る雪でさえその身の滑らかさで積もらせることがない。雪は彼女の足元で地の底へと沈んでいき、あの愛に敵対し、愛の持続を唐突に打ち切らせる鳥の透明を目撃する。誰も見たことがない雪の笑顔が西の端から東の端まで広がる。彼女をひとりにしておける安らぎが眠りに落ちると、彼女は忽ち恋に落ちる。夢の世界では腰が物の役に立たなくなり、立っていることも座っていることもできなくなって、ただ横になっているしかない。宙に浮かんでいるのと何も変わらない、彼方へと飛び去っていくのと何も変わらない、闇に葬られ忘れ去られていくのと何も変わらない、恋の渦中で。遂に彼女は重力を退けたのだ。望みの成就には氷でさえ水を飲むたくなる効果と、氷もまた寒さに耐えきれずに離れた場所にいる別の氷を抱き締めに行こうとする衝動を抑えられない代償が伴う。身動きひとつ取れないというのに。彼女は言った。春を待つまでもなく、真冬の最中に灰色と薔薇色を掛け合わせた雪解けが到来する。あなたは私の無防備な裸体、剥がれ落ちた氷の向こうで湯を浴びせかけられた後のような上気した肌を目の当たりにする。私を包む氷が溶け出すとき、荒野は再び湖となって、愛を再び潤すだろうから、あなたは待つことを躊躇ってはならないと。そうして時が流れ、今ではもう彼女の微笑みの綻びを許さない氷はもうどこにも存在しない。恋は破れるものだと言っても、破顔と同じで、一面に咲き乱れる花を墓前にもたらすことと何ら変わらない。一日一日、彼女は愛しい人と会って別れるたびに失恋を繰り返している。失恋とは一日の終わりのことなのだから、一日の始まりには落ちるべき恋が予め準備されている。決して離れていこうとも、遠くに行こうともしない一日は過去を生み出さない。過去は一日が一日ではなくなったときにはじめて現在の夢の残り火から蘇生し、時間の周縁ではなく、中心にもたらされる。かつて一度も起こらなかったことのように穿たれる。過去は記憶しない。過去は放たれる。枯渇した湖の虚空に。過去は沈んでいく。満たされた湖の底深くに。過去はそれ自身の行為を自在に操れないように人に見せかけておいて、記憶であれば自在に操れると人に思い上がらせている。だから、恋の記憶とは記憶ではない。事実、愛しい人の顔を思い出そうとしても思い出せないことと、肌を金色に染めて輝かせようとする夜の交わりを思い出せないことはそのことを如実に証明している。記憶になってはいけないとする過去の悲願を成し遂げたのだ。彼女の恋は。朔の夜に。新月のように過去は夜に紛れ、三日月の記憶を恐れてもいる。あまり猶予は残されていない。待ってはくれないのだ、いつか記憶の死が訪れるその日まで。出会いの記憶が生成される前になんらかの手を打たねばならない。でないと、彼女は何度でも彼と出会い直さなくてはならなくなり、悪夢のなかで目覚めと眠りの憐憫を果てしなく受け取らなくてはならなくなり、愛されていたときの記憶が湖の底へ降りる前の鬱へと引き戻していってしまう。金色の肌が今もまた温もりに溺れている。彼女は言う。何度も声を詰まらせて。あなたのことを愛していると。寝ていても、あなたのことを愛し続けている、あなたの不在が永遠でも、あなたのことを愛し続けている、あなたが私と出会うことなく別の女性を記憶し続けていたとしても、愛し続けている。彼女の内なる声を聞いた彼が彼女の言葉を信じたとしても致し方ない。彼女の愛が生み出すイメージは計り知れないのだから。彼女と彼、それぞれの愛をそれぞれが自身の内で信じたときにしか運命は起こらないのだから。すれ違いの回数が多ければ多いほど、試練の通過を経たことになり、互いを地底へと沈め合う絆が強くなっていく。だから、もう一度、彼女と彼は出会うことになるだろう。知らないうちに引き寄せ合って、再会とは別のかたちで。

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