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【通史】平安時代〈19〉院政の開始(2)白河天皇はなぜ上皇になったのか?

天皇と上皇の関係

1086年白河天皇は天皇の位を幼い堀河天皇に譲って自らは上皇となりました。政治の表舞台には立たず、天皇家の家長として幼帝を後見する形で政治を管理・補佐することにしたのです。

◯ところで、白河天皇が自らの意思で生前退位したことによって「天皇」「上皇」という二重の権力状態が生まれるわけですが、では両者ではどちらが上位の権力を持っているのかというと、タテマエ上、すなわち法制上の最高権力者「天皇」です。しかし、天皇家の中の最上位者家長である「上皇」です。上皇は正式には「太上天皇」といい、これを略したのが「上皇」です。「太上」というのは「最もすぐれたもの」という意味です。すなわち「上皇」というのは、事実上、天皇よりも上の立場であるという意味を内包した呼称なのです。

◯天皇と上皇というのは、会社で例えるなら社長と会長のような関係です。会長というのは社長を退いた人の名誉職のようなもので、実際の会社の経営権は社長に譲ることになりますが、会長は自分の後任となった社長への「相談役」という名目で社長時代に引き続き大きな決定権を維持し続ける場合がほとんどです。白河上皇もいわば会長として、社長である堀河天皇の上位に位置し、大きな権力を発揮するのです。

◯本郷和人氏(東京大学史料編纂所教授)は『権力の日本史』(文藝春秋)という著書で、「路頭礼」「朝覲行幸」という二つの儀礼を例に挙げて、天皇と上皇の関係を説明していますので引用します。

◯まず、「路頭礼」というのは「路上において他者と遭遇した際の礼法」のことです。貴族社会では「京都の街中などで、貴族同士の牛車や行列などが遭遇した場合、どちらが頭を下げるか」といった問題が頻発するために、「非常に精緻な取り決めがなされていた」そうです。そして、「その路頭例によると、天皇と上皇が遭遇した場合には、天皇のほうが先に頭を下げるということに定められている」とあります。

◯次に「朝覲行幸」ですが、「朝」には「天皇の政務」という意味があり、「覲」には「まみえる・謁見する」という意味があります。「行幸」は「天皇が内裏を離れて外出すること」です。そこから「天皇が親である太上天皇(上皇)や皇太后の居所を訪問し拝謁すること」「朝覲行幸」といいます。そして「この時、出迎える上皇より先に、天皇のほうが頭を下げなくてはなりません。」とあります。

◯この二つの儀礼が示すように、法制上の最高権力者は天皇であっても、実際には、天皇は天皇家の家長である上皇に対して従属関係にあるのです。

院政の仕組み 院庁・院司・院近臣

◯さて、1086年、天皇を退いた白河上皇は平安京の南の鳥羽に鳥羽離宮(鳥羽殿)という「院」(後院、院御所とも)の造営を開始しました。その造営の様子は、まるで都移りのようであったといわれます。「院」というのは、上皇が暮らす御所(天皇など特に位の高い貴人の邸宅)のことです。なお、「院」は上皇自身を指す言葉としても使われます。だから、白河上皇のことを「白河院」と称することもあります。

◯そして、ここに「院庁」と呼ばれる政庁(政務を取り扱う官庁)を設けました。ただし「院庁」白河上皇が独自に設置したものではなく、もともと上皇の家政( 家事をとりしきること)を執り行う役所として、どの上皇にも用意されます。しかし、白河上皇の場合は、この「院庁」を政治の拠点とする体制を敷いたという点で他の上皇とは異なるのです。白河上皇にとって鳥羽離宮は単なる隠居所ではなく、政治の拠点です。そして「院庁」を根城として天皇の政務を補佐するという名目で)政治に関わるので、このような政治体制を「院庁政治」、略して「院政」と呼びます。

「院庁」の職員に任命された別当(長官)以下の職員を総称して司」と呼びますが、中でも上皇の手足となって政務を支え、その実務を掌握した有力な院司近臣」と呼ばれた者たちです。「院近臣」の指名は全て白河上皇が行い、上皇の乳母の近親者国司(受領)を歴任した中流以下の貴族から構成されました。

院近臣①上皇の乳母の近親者

◯まず、なぜ上皇の乳母の近親者上皇の側近官僚に抜擢されたのかというと、平安貴族は幼い頃は乳母に預けられ、乳母の家族と一緒に育つのが普通でしたので、乳母の近親者は血のつながる肉親同様の存在だったからです。

*平安時代、高貴な家柄の女性は乳母を付ける慣習でありました。女性の体は授乳の刺激によって排卵を抑制させるホルモンが分泌されます。授乳期というのは母乳産生のために母体のエネルギー消費量が増加します。この時期に妊娠すると体にさらなる負担がかかるので、これを避けるために授乳期は排卵を抑制させるホルモンが分泌されるのです。しかし、授乳しなければそのホルモンが分泌されなくなります。多産が求められた高貴な家柄の女性は、次の妊娠を遅らせないために授乳を乳母に任せたのです。

◯乳母の夫(乳父)は実父と同然、乳母の子供たち(乳母子)は実の兄弟と同然でしたから、自分が成長した時には最も信頼できる家臣となりました。源義仲と今井四郎兼平、フィクションですが『源氏物語』の光源氏と惟光などの関係は、その良い例です。このことは院の場合も同じで、乳母の近親者は政治的にも一番信用できる腹心となりました。藤原通憲(信西入道)がその典型です。

院の近臣②国司(受領)を歴任した中流貴族

◯また、中流以下の貴族の近臣」に抜擢されたのは、上皇は名目上は政界から退いた隠居の身であるため、「院庁」の職員に朝廷の役人を登用することはできなかったからです。そのため、上皇自ら家臣を集める必要がありました。中級以下の貴族には、藤原北家の一門が支配する都での出世は期待できませんでしたので、彼らは国司(受領)として地方に下りました。

◯徴税請負人として権限が強化された国司は、一定の税を都に納める以外は自由に地方を支配することができたので、任地の開発領主(大名田堵)が開拓した荘園を独自の判断で国免荘(国司の免判状で税の徴収を免除することが認められた荘園)として認可し、その見返りに本来の租税の分を開発領主と分け合うなどして莫大な財産を蓄えるようになりました。開発領主と国司との間に癒着が生まれるわけです。

◯しかし、国免荘の権利は非常に危ういものでした。国司の任期は4年と決まっていたからです。国免荘を認可した当の国司の在任期間中はその特権に有効性があっても、任期満了に伴って新しい国司が赴任すると、徴税の障害となるために取り消されてしまいます。次期の国司ともうまくギブ・アンド・テイクの関係を築ければよいですが、強欲な国司が赴任したら最悪です。実際にこのようなトラブルの発生が後を絶ちませんでした。そこで、恒久的な「不輸租の権」を獲得したい開発領主たちは、自分の荘園を形式的に受領に寄進してしまいます。さらに、寄進を受けた受領たちは、仲介役となってその土地を朝廷の上級貴族に寄進します。政府高官である上級貴族は、一切の税を免除される「不輸の権」を持っていたからです。こうして荘園を上級貴族の所領としてもらうことで、新しく赴任した国司が手を出せなくなるわけです。これがいわゆる「寄進地系荘園」の領有形態です。国司としても、次の除目で再び国司としての任官にありつけるとは限りませんから、国司としての任期を終えても路頭に迷わないだけの経済的基盤を作ってから京都に戻ろうと考えるのです。

◯この仕組みによって、国司としての任期を終えて帰京した後も、寄進の仲立ちをした荘園から収穫が送られてきます。たとえば100の収穫があったとして、そのうち40が取り分として送られてくる。そのうち15を上級貴族に「名義料」として上納することで権利を保護してもらう。上級貴族としても名義を貸すだけで収入が入ってくるので断る理由がありません。

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◯なお、開発領主から寄進を受けて荘園を持つようになった受領のことを「領家」といい、その「領家」を介して寄進を受けた上級貴族を「本家」といいます。そして、領家・本家を問わず、実質的に荘園を支配した者は「本所」といいます。こうして直接的、間接的に荘園を寄進した開発領主のことを「荘官」といいます。

◯ところで、「本家」となる上級貴族には、摂関期においては当然、藤原摂関家が選ばれました。摂関家が所有する荘園に手を出そうとする国司などいません。また、国司は任期満了後、任期中の徴税額について朝廷から成績審査を受けなければなりませんでした。この審査のことを「受領功過定」といいます。無事に審査を通過すると国司は出世したり、次の除目で優遇されたりします。そして、この審査を行うのは「陣定」という公卿の会議です。もちろん、この「陣定」を牛耳っているのは藤原摂関家の一門ですから、国司は率先して摂関家に蓄財の成果を献上したり、荘園の寄進を行ったりしたのです。

◯ところが、上皇が実権を握る院政期に入ると、受領たちが荘園の寄進先を上皇に鞍替えします。いくら摂関家に蓄財の成果を献上しても、ライバルたちが五万といるので必ずしも再び受領に任じてもらえるとは限りません。また、朝廷の中での出世は出自が全てですので限界があります。しかし、朝廷での出世の見込みがない彼らも、「院政」では上皇に気に入られれば出自に左右されることなく出世することが期待できます。特に豊富な財を築いた国司層(受領層)の多くは、院近臣として登用されて上皇の権力・権威にあやかるために積極的に荘園を寄進したり財力奉仕をしたりします(簡単にいえば賄賂)。白河上皇はこうした野心を持つ中流以下の貴族を「院政」の支持勢力に取り込んでいったのです。

◯たとえば、院近臣受領の典型として高階為章という人物がいます。白河上皇がまだ天皇の位にあった時代に、白河天皇の発願によって着工された「法勝寺」の造営に財力奉仕を行った功績で白河の寵愛を受け、1081年越後守(越後=新潟県)に任じられます。このように私費を献じて寺社の堂塔などを修造した見返りに官職を授けることを「成功」といいます。白河天皇が上皇となった1086年には但馬守(但馬=現在の兵庫県)に任じられ、その後も1093年加賀守(加賀=現在の石川県)、1096年丹波守(丹波=現在の京都府)と続けて大国の守を歴任しました。

◯こうして「院政」が始まると、白河上皇への私的奉仕と引き換えに「院近臣」となった受領は、白河上皇の特別の取り計らいを受けて「受領功過定」を通過し、再び受領に任じられるということが一般的となり、「受領功過定」は形骸化していきます。そして、任国から吸い上げた富を再び白河上皇に献上するということを繰り返すことで、収入の多い国を長期に渡って歴任する高階為章のような受領が現れるのです。

◯さらに、やがてますます院政が強化されていくと、院庁に朝廷の公卿たちが集まって会議を行い、上皇の決済を仰いで政事を処理することが、宮中で行われる政治よりも優先するようになっていきます。また、それに伴って、白河上皇自らが直接下す命令である院宣や、院庁を通じて出す命令である院庁下文が公的な力を持つようになっていきました。

白河天皇が「院政」を敷いた当初の目的

◯ただし、後で説明しますが、白河天皇は当初からそのような専制的な院政体制を意図していたわけではなく、結果的に院政の体制を強化していくことになったといえます。というのも、白河天皇が早々にまだ幼い堀河天皇に譲位した本来の意図は、自分の直系の子孫による皇位継承の安定化、あるいは世襲による位の独占というのが一番だったからです。すでに述べたように、直系尊属である上皇が健在する場合、上皇が天皇家の家長です。天皇家内部のことは天皇家の家長が決めます。これは、次の天皇を誰にするかという問題すなわち皇位継承者の決定権を握っているのは上皇であるということでもあります。

◯例えば、前回見たように、後三条上皇が決めた皇位継承順位では、白河天皇の後は藤原氏と外戚関係を持たない異母弟の実仁親王が皇位を継ぐということになっていました。実際には実仁親王は皇位を継ぐことなく亡くなってしまったわけですが、重要なことは白河天皇が皇太子を指名したのではなく、天皇家の家長たる後三条上皇が指名したということです。これにはたとえ天皇といえど逆えず、上皇の意向に従うしかなかったということを示しています。ここからも天皇よりも上皇のほうが優越的な立場であることがわかります。

◯なお、摂関期には藤原氏が自分たちに都合のいいように皇位を継承させてきましたが、あれは上皇が健在ではなく、皇太子を指名する権利をもっている天皇家の家長が藤原氏を外戚とする天皇だったからできたことです。別に藤原氏に皇位継承者決定権があったわけではありません。たとえ藤原氏が強大な権力を握っていたとしても、皇位継承者の決定権はないのです。

◯実際に、三条天皇を例に挙げると、三条天皇は病が悪化して譲位を考える段になったとき、先代の一条天皇が崩御に際して皇太子に指名した敦成親王(道長の長女・彰子と一条天皇の間に生まれた皇子)に譲位しますが(後一条天皇として即位)、このとき敦明親王の立太子を条件としました。三条天皇のもとには東宮時代に娍子という女性が入内していて篤く寵愛していました。その娍子との間に生まれたのが敦明親王です。しかし、その後道長は次女の妍子を入内させます。結果として妍子との間には女児(禎子内親王)しか儲けられませんでしたが、道長としては血の繋がらない敦明親王ではなく、敦成親王の弟である敦良親王(のちの後朱雀天皇)を皇太子にしたい。しかし、三条天皇が指名したのは敦明親王です。これはたとえ道長といえど覆すことはできません。そのため、三条天皇が崩御したあと、道長は敦明親王に様々な圧力をかけて自ら皇太子を辞退するように追い込みました。その結果、道長の思い通りに敦良親王を皇太子にすることに成功したのです。

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◯その後、後一条天皇が崩御すると弟の敦良親王に譲位されて後朱雀天皇として即位。やがて後朱雀天皇も病によって倒れた際に自分の子である親仁親王に譲位し、後冷泉天皇が即位します(後朱雀天皇は譲位2日後に崩御)。つまり、後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇の治世には、直系尊属である上皇が健在ではなかった。上皇が存在しないときには天皇が家長となりますが、その天皇が藤原氏を外戚とする天皇だったので、藤原氏の思い通りに動かすことができたわけです。実質的には、亡き一条天皇の后であり、後一条天皇後朱雀天皇の母であり、後冷泉天皇の祖母である彰子が天皇家の家長として天皇の政務を後見したようです。

◯しかし、藤原氏を外戚としない白河天皇が即位したことで、この流れは途切れます。白河天皇は、さっさと息子に譲位して天皇より立場が上の上皇になることによって、次代・次々代の天皇に自らの直系の子孫を確実に指名していく体制を作りました。このあと白河上皇は、堀河天皇に皇子(孫)が誕生すると生後7ヶ月で立太子させ(1103年)、堀河天皇の崩御後に鳥羽天皇として即位させます。さらに鳥羽天皇に皇子(曾孫)が誕生すると鳥羽天皇に譲位を迫り、曾孫を崇徳天皇として即位させます。こうして在世中に息子・孫・曾孫へと皇位を継承させ、宿願を達成していくことになるのです。このあたりの話は次回以降で詳しく見ていきます。

◯また、上皇になれば朝廷から院に御所が移りますから、朝廷に根を張る藤原氏の政治的圧力や影響を受けることもなくなります。これが白河天皇が院政を始めた理由です。よく白河天皇は藤原氏の排除を狙って院政を始めたと言われますが、それが一番の理由ではないのです。

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