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【通史】平安時代〈11〉藤原北家による摂関政治の始まり

◯967年、村上天皇が没したため、第二皇子であった憲平親王冷泉天皇として即位します。

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◯即位時17歳であったため、父の村上天皇と同じく天皇親政をしてもおかしくはないのですが、藤原忠平(朱雀天皇の治世の関白)の長男である藤原実頼関白として補佐することになりました。実頼は、冷泉天皇にとっては母方の大伯父(祖父母の兄)にあたります。
*冷泉天皇の母安子は、実頼の弟である師輔の娘。

◯なぜ関白がついたのかというと、「気の病」すなわち精神障害を患っていたために奇行が目立ったからです。冷泉天皇は村上天皇の第二皇子です。第一皇子には広平親王がいたので、冷泉天皇は即位させるべきでないという意見もありました。けれども、どの皇子が天皇として即位するかというのは、母の出自で決まる時代です。冷泉天皇の母は藤原北家の出自であったため、広平親王を飛び越して立太子され、そして天皇として即位したのです。

◯しかし、即位直後から次期皇太子問題が持ち上がりました。次期天皇として有力視されたのは、冷泉天皇の同母弟である為平親王です(村上天皇の第四皇子)。しかし、この為平親王のもとには左大臣・源高明の娘が嫁いでいました。源高明という人物は、醍醐天皇の第十皇子です。7歳で臣籍降下をし、その際に醍醐天皇から「源氏」の姓を賜りましたが(醍醐源氏)、非常に優秀であったために朝廷で重く用いられるようになり、順調に出世街道を走ってきました。

◯もし為平親王が天皇になって、さらにその子が天皇になれば、源高明が天皇の外祖父として摂政・関白の座に就き、政治の実権を握ることになりかねません。そこで、藤原北家以外の人間が摂政・関白の座に就くことを嫌った藤原実頼源高明の失脚を狙って画策します。

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藤原実頼は、藤原氏と通じていたとされる源満仲を使って、朝廷に「源高明が為平親王を天皇にするために謀反を企てている」と讒言させます。源満仲は、あの「藤原純友の乱」の平定に活躍した源経基の子です。

◯この讒言によって、源高明は天皇家に対する謀反の容疑で大宰権帥に降格させられ、大宰府に左遷されてしまいます。これが「安和の変」です。醍醐天皇の治世に菅原道真が藤原時平の讒言によって大宰権帥に降格させられ、大宰府に左遷されましたが(昌泰の変)、それと全く同じ手法でライバル貴族を排斥したわけです。

「安和の変」は藤原氏北家による最後の他氏排斥事件です。これ以降、藤原北家にとって脅威となる勢力は出ず、ここから約100年間、11世紀まで常に藤原北家から摂政・関白が置かれる時代が続くことになります。

◯なお、「安和の変」の立役者となった源満仲はその功績から昇進し、さらに摂関家と結びつきを深めていくことで、経基から始まる「清和源氏」の台頭の礎を築き上げていくことになります。

〈今回の内容のまとめ〉

冷泉天皇(第63代:967~969年)*村上天皇の第二皇子
↳精神疾患を患っていたため、藤原実頼(忠平の息子)が関白として補佐
安和の変(969年) *藤原氏による最後の他氏排斥事件
(背景)即位直後から次期皇太子問題が取り沙汰される
    ↳為平親王(村上天皇の第四皇子)が有力視
     ↳左大臣・源高明(醍醐天皇の第十皇子)の娘が嫁いでいる
(事件)源高明の台頭を望まない藤原氏は、源高明の失脚を画策
    源満仲(源経基の子)に源高明が謀反を企てていると讒言させる
    ↳「源高明為平親王を天皇にしようと画策している」
(結果)源高明大宰府に左遷 *源満仲はその功績により昇進
    ↳藤原北家に対抗する勢力はいなくなる

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