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【通史】平安時代〈18〉院政の開始(1)白河上皇の登場

1072年後三条天皇はわずか4年で、第1皇子の貞仁親王に位を譲り、白河天皇が即位します。即位当時18歳でした。関白は父・後三条天皇の代から引き続き、藤原教通が続投しています。

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◯ところで、実は、後三条天皇は第1皇子の貞仁親王ではなく、第2皇子の実仁親王に皇位を継承したいと考えていました。その理由は血筋にあります。下の系譜を見ると、白河天皇の藤原茂子藤原能信という人の娘であることがわかります。藤原能信は、道長が側室(正妻でない妻)の源明子に産ませた子で、道長の四男にあたります。つまり、傍流ではありますが藤原北家の人間なのです。能信は後三条天皇がまだ皇太子(尊仁親王)の頃に娘の茂子を入内させており、二人の間に生まれた子供が貞仁親王です。ということは、貞仁親王が天皇(白河天皇)として即位すると、再び藤原北家の人間を外戚とする天皇が誕生することになります。

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◯後三条天皇は藤原氏を外戚から外し、奈良時代や平安時代初期のような天皇主導の政治を復活させることを目指していました。そのため、傍流とはいえ藤原北家の血を引く貞仁親王よりも、藤原北家と外戚関係を持たない第2皇子の実仁親王に皇位を継承させたかったのです。

◯しかし、1072年当時、実仁親王はまだ2歳でした。さすがに2歳の幼児を天皇させるわけにはいきません。そこで、やむをえず貞仁親王白河天皇として即位させたわけです。本音を言えば、実仁親王が誕生した時点で貞仁親王を廃太子し(皇太子からおろすこと)、実仁親王を皇太子に立てたかったのかもしれません。しかし、さすがにそれは心が痛んだのか、後三条天皇は当初の予定通り、まず貞仁親王を即位させて、次の皇太子として実仁親王を立てさせることにしたのです。だから、後三条天皇としては、白河天皇のことを実仁親王が成長するまでの中継ぎの天皇としか考えていませんでした。

白河天皇も父帝の意向に従って、異母弟・実仁親王を皇太子にします。しかし、1085年、その実仁親王天然痘という感染症にかかり、15歳で薨御(皇太子や大臣などが逝去すること)してしまいました。

後三条天皇は、白河天皇に譲位した翌年の1073年に40歳で亡くなっていますが、『源平盛衰記』によると、後三条天皇は生前に「実仁親王が即位した後は、輔仁親王を皇太子とするように」との遺言を白河天皇に託したそうです。輔仁親王実仁親王の弟です。これは、もし白河天皇に皇子が生まれても、「おまえの子を皇太子にするな」ということです。実は、再度系譜を見るとわかるように、1071年、白河天皇貞仁親王だった頃ですが、道長の嫡男・藤原頼通の子である藤原師実の娘・藤原賢子が入内しています。白河天皇はこの賢子を深く愛していました。もしも白河天皇に生まれた皇子が天皇になると、藤原北家との外戚関係が復活してしまうことになるのです。これを深く憂慮しての遺言でした。

◯もちろん、白河天皇としても、生涯かけて一貫して藤原北家の勢いを抑える政策をとってきた父・後三条天皇が、どれだけその結びつきを切りたかったは頭では理解していたことでしょう。しかし、血のつながらない異母兄弟より、実の息子に皇位を継承させたいと考えるのは自然なことです。まして深い愛情で結びついた后との間に生まれた子となればなおさらです。

◯そして、実際に1074年、後三条天皇が崩御した翌年に、白河天皇賢子の間に第1皇子である敦文親王が誕生します。しかし、敦文親王はわずか4歳で夭逝してしまいました。それでも1079年には再び子宝に恵まれ、第2皇子・善仁親王を授かります。第1皇子の早世に深い悲しみに暮れていた白河天皇にとって、善仁親王の誕生がどれほどの喜びに満ちていたかは言うまでもありません。

◯しかし、白河天皇の最愛の妻・賢子は、1084年28歳の若さで亡くなります。白河天皇は、病床に伏した賢子が重態に陥っても宮中からの退出を許しませんでした。

◯しかし、平安時代、「血」「死」「穢れ」(忌まわしく思われる不浄な状態)とされ、とりわけ宮中では何よりも忌避されていました。例えば、女性の月経出産には出血を伴うため「穢れ」とされます。生理中の女性たちは実家に里帰りするか、別の建物の一室などに隔離されるなどしたようです。また、出産も出血を伴うため、やはり宮中から退出し、実家に里帰りをして行います。同様に、病気が悪化した場合も、万が一の「死の穢れ」を用心して宮中を退出することがしきたりでした。

◯このように「穢れ」の思想が貴族の生活に深く根付いていた当時、最愛の后とはいえ、国家の祭祀を司る最高位にある天皇が宮中で死を看取り、自ら死穢に触れるなどということは先例のないことでした。これを見かねた近臣が、白河天皇を諌めると、天皇は「これをもって先例とせよ」と反論したといいます。

◯さて、皇太子の実仁親王が天然痘によって薨御してしまったところに話を戻します。父・後三条天皇の遺志に従えば、亡くなった実仁親王に替わって輔仁親王を立太子させるべきですが、白河天皇はこの遺言を無視し、1086年、亡き后の面影を残す8歳の我が子・善仁親王を新たに皇太子に立てました。

◯しかも、白河天皇は、善仁親王を立太子させるやいなや、その日のうちに譲位し、自らは32歳で上皇となってしまいます。こうしてわずか8歳善仁親王堀河天皇として即位します。

◯また、堀河天皇を即位させた後も、白河上皇は輔仁親王を皇太子に立てませんでした。輔仁親王ではなく、将来生まれてくる堀河天皇の息子に後を継がせるためです。すなわち、これは「自分の直系の子孫に皇位を継がせていく」という意思表示でした。

◯そして白河天皇は白河上皇となり、8歳の天皇を補佐しながら引き続き政務を執り行っていくことになります。すなわち「院政」です。歴史学的にはこの「院政」の始まりが古代から中世への切り替わりとされています。次回はこの「院政」について見ていきます。

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