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【通史】平安時代〈5〉天皇親政(1)「寛平の治」

◯前回の流れを振り返りましょう。光孝天皇の後を継いで21歳で即位した宇多天皇でしたが、藤原基経は「関白」に任命される際に受け取った天皇の詔に書かれてあった「阿衡」という言葉が無礼であるとして受け取らず、半年以上にわたって政務を放棄しました(阿衡の紛議)。これにより国政が滞り、朝廷の政治は大きく混乱してしまいます。結局、宇多天皇が基経に譲歩せざるを得ず、天皇は詔を撤回、その起草者である文章博士、橘広相を処分せざるを得ませんでした。こうして基経は、天皇の面目を潰すことで藤原氏北家の権力の強さを、世に知らしめたわけです。

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天皇親政の実施

◯891年、その藤原基経が亡くなりました。基経には時平という子供がいましたが、宇多天皇時平関白を引き継がせることはしませんでした。宇多天皇にしてみれば、阿衡の紛議における基経の示威行為は、やはり不愉快極まりなかったはずです。基経を関白に任命した後も、その確執が消えることはなかったと思われます。また、藤原北家による摂関政治がこのまま続くと、彼らによる専横に拍車がかかることも懸念したのでしょう。自らの権限で政治を進める「親政」を行います(天皇親政)。

文徳天皇(藤原良房の甥)以降、清和天皇(藤原良房の孫)、そして陽成天皇(藤原基経の甥(従甥))と3代の天皇にわたって外戚(母方の親戚)関係を築いてきた藤原北家でしたが、ここでその流れがいったん断ち切られることになりました。乱暴者だった陽成天皇を退位させ、藤原氏と縁戚関係にない光孝天皇を立てたことが基経の失敗でした。後を継いだ宇多天皇も藤原北家を外戚とする人ではないので、藤原氏の影響力が薄いのです。しかも、高齢で天皇になった光孝天皇の子供とあってすでに成長していて、自分の意思というものが芽生えています。これまでは、天皇に嫁がせた娘(あるいは妹)に皇太子を産ませ、その子がまだ幼少の間に天皇として即位させる。そして、当時は子供の養育は母方の実家で行われたため、同じ家に住む外祖父あるいは母方の伯父などが幼少の天皇に代わって摂政として政治を操る。こういうやり方が成功したから藤原北家は繁栄してきたわけです。ところが、それが宇多天皇には通用しないのです。

◯しかし、これまで摂関政治によって強固な権力基盤を築いてきた藤原北家の人間からすると、宇多天皇が藤原氏を摂政・関白として置かずに親政を行うことを快く思うはずがありません。奇しくも宇多天皇が親政を始めたのと時を同じくして、天皇の側近たちが夜襲に遭ったり、謎の死を遂げたりするという事件が相次ぎます。そこで、宇多天皇宮中の警備役として滝口の武士というものを置くようになります。

菅原道真の重用

宇多天皇の治世は後世「寛平の治」と呼ばれ讃えられますが、宇多天皇は基経の死後は藤原氏を遠ざけるようになり、かわりに学者であった菅原道真蔵人頭に任命して重用します。

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◯そうすると、藤原氏がこの道真の存在を快く思うはずはありません。当時、日本は優秀な人材を唐に派遣し、唐の先進的な政治制度や文化、建築技術、仏教の経典などを学ばせて日本に持ち帰らせていました。遣唐使です。そして、この遣唐使の任命権は、藤原氏が握っていました。そこで894年、この年に予定されていた20回目となる遣唐使団の一人に、藤原氏は道真を選出しました。遣唐使に任じることで宇多天皇から切り離し、道真を排斥しようとしたのです。

遣唐使の廃止

◯しかし、ここで道真唐の政情混乱による衰退を理由に、朝廷に対して遣唐使の廃止を提言します。折しも当時の唐は政情が混乱して内乱が続き、衰退の一途をたどっていました。そのような状態の唐に、命の危険を冒してまで使節を派遣する必要はないというわけです。

◯当時の造船技術・渡航技術では、遣唐船のおよそ半分が、海路を襲う風雨による被害を受けて遭難あるいは水没し、唐に到着することができなかったと言われています。また、無事に唐に到着できたとしても、今度は帰路で同じように被害を出しました。

◯これまでは、そのような危険を払ってでも、唐の先進的な政治制度や文化、建築技術、仏教の経典などを学ばせて日本に持ち帰らせることの方が重要でした。しかし、この当時、唐は内乱続きで情勢が傾き、弱体化してきていたのです。優秀な人材の命を危険にさらしてまで派遣を続ける理由がなくなってきていたと言えます。

◯朝廷は道真の提言を受け入れ、630年から続いてきた遣唐使の中止を決断しました(894年)。そして実際に、その後907年に唐は滅亡してしまいます。以降、遣唐使が派遣されることはなく、結果として廃止となったのです。これによって道真の排斥を狙った藤原氏の陰謀は失敗に終わりました。

◯897年、宇多天皇は皇太子の敦仁親王が元服すると同時に自分の息子の敦仁親王に位を譲り、醍醐天皇として立てました。当時弱冠13歳です。このとき、宇多天皇は醍醐天皇に対して、天皇としての心構えを書いた『寛平御遺誡』を訓戒として与えました。内容は天皇としての日常の所作、朝廷での業務や儀式、任官叙位などから藤原時平、菅原道真ら具体的な廷臣の人物評に及びます。そして特に菅原道真を道真を引き続き重用するように求めました。

◯そして、899年藤原基経の子の時平左大臣に、道真右大臣に任じられます。道真はついに大臣にまで上り詰めたのです。

◯さらに、宇多天皇には醍醐天皇となった敦仁親王のほかに斉世親王がいましたが、この斉世親王のもとに菅原道真の娘を嫁がせています。それくらい道真は宇多天皇の信頼と寵愛を受けたわけです。亡くなるときも「醍醐天皇をよろしく頼む」と言い残したほどです。

◯宇多天皇の寵愛を受け、学者の身分からついに藤原氏に肩を並べるまでに出世した道真。このままでは藤原氏を越えて太政大臣にもなりかねない。そのような疑念が時平の心に巣くいます。

菅原道真の左遷

◯危機感をつのらせた時平は、道真がその娘を宇多上皇の子で醍醐天皇の弟である斉世親王に嫁がせていることに目をつけ、「道真は帝を追放して斉世親王を天皇の位につけようと謀反を画策している」と醍醐天皇に讒言します。

◯道真は上皇となって退いた宇多天皇の命を受けて、息子の醍醐天皇に対していろいろと政治的なアドバイスをしていました。しかし、やがて醍醐天皇は道真があれこれと口を挟んでくること、そしてその背後にいる父宇多上皇の存在をいささか煩わしく感じ始めます。そこへ時平の讒言です。醍醐天皇はこの讒言を受け、菅原道真を右大臣から大宰権帥に降格させ、九州の大宰府に左遷してしまいます。これを昌泰の変901年)と呼びます。

◯知らせを受けた宇多上皇は驚き、醍醐天皇の判断を思いとどまらせようとしますが、醍醐天皇は聞き入れませんでした。

◯道真が太宰府に向けて出発する際、自宅の庭に植えられた梅の木に向かって詠んだ歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」はあまりにも有名です。

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
現代語訳:(春になって)東の風が吹いたならば、その香りを(私のもとまで)送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、(咲く)春を忘れてくれるなよ。

◯現在、福岡県太宰府天満宮の境内には、樹齢1000年を超えるとされる白梅が御神木として植えられており、「飛梅」と呼ばれています。これは、梅の花に道真の歌の心が通じ、主人を慕って都から遠く大宰府まで一夜にして飛び、この地に降り立ったものだと言い伝えられています。

◯太宰府左遷になってわずか2年後の903年、道真は大宰府の地で失意のうちに一生を終え、再び京都に戻ることはありませんでした。

◯すると、道真の死後、都では飢饉や干ばつ、そして道真の左遷にかかわった人々の謎の死など、異常な出来事が相次ぎます。さらには909年、道真を疎んで醍醐天皇に讒言した時平までもが39歳の若さで病に倒れます。923年には藤原時平の妹と醍醐天皇の皇太子保明親王が亡くなります。これらの不吉な出来事は、すべて菅原道真の怨霊による祟りだと人々は恐れました。

◯極めつけは930年の出来事です。宮中の清涼殿に落雷が直撃し、多数の死者を出す大惨事に見舞われました。この時、その惨状を目のあたりにした醍醐天皇は、これも全て道真の祟りによるものだと戦慄したと言われます。その3ケ月後、ついに醍醐天皇も崩御します。こうして菅原道真の左遷に関わった主だった人々は、すべて死に絶えました。

◯朝廷では、道真の祟りを鎮めるために、道真の左遷を撤回し、太政大臣の位を追贈する決議がなされます。さらに947年には、京都に道真をまつった北野天満宮が建てられました。

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〈今回の内容のまとめ〉

宇多天皇(第59代、位887~897年)「寛平の治」
「天皇親政」を実施 →基経の死後、藤原氏を遠ざけるようになる
            ↳藤原時平(基経の子)を関白に置かず
(背景)阿衡の紛議(887年)における基経の示威行為に不快感
(結果)文徳清和陽成と3代の天皇にわたって外戚関係を築いてきた
    藤原北家摂関政治の流れが断ち切られる
滝口の武士宮中の警備役)を設置
(背景)天皇の側近たちの夜襲被害や不審死が相次ぐ
③学者の菅原道真蔵人頭に任命して重用
遣唐使の廃止(894年) ←菅原道真による建議
(背景)唐の政情混乱による衰退 907年に唐滅亡
⑤皇太子敦仁親王に譲位する際、『寛平御遺誡』を与える
                ↳道真を引き続き重用するよう指示

醍醐天皇(第60代、位897~930年) ←敦仁親王が13歳で即位
藤原時平左大臣に、菅原道真右大臣に任じる(899年)
昌泰の変(901年)→ 菅原道真を大宰権帥に降格、大宰府に左遷
(背景)時平が「道真が斉世親王を天皇にしようとしている」と讒言
斉世親王 →醍醐天皇の弟。妻は道真の娘の菅原寧子
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
  ↳道真が太宰府に向けて出発する際に詠んだ辞世の句

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