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【通史】平安時代〈9〉国司の搾取に対する不満

朱雀天皇の治世に起きた「承平・天慶の乱」は、地方武士による最初の大規模な反乱でした。そして、この二つの反乱に対して、時の関白・藤原忠平は何もできませんでした。武士の反乱を鎮圧したのは同じく武士です。このような大規模な反乱が起きたとき、朝廷は武士の力を頼らざるを得ないことが明らかになり、ここから武士の存在感が強まっていくことになります。

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◯ところで、これらの大規模な反乱が同時期に起きたということは、この時期の朝廷の政治に対する不満がそれだけ高まっていた、ということでもあります。そこで、今回はこの当時の政治の乱れについて見ていきます。

醍醐天皇(第60代、位897~930年)の治世に、院宮王臣家と称される権門勢家が「富豪の輩」と呼ばれる新興富裕農民と結びついて「院宮王臣家領荘園」と呼ばれる不正な荘園を拡大していき、さらに見返りを得るために院宮王臣家と裏で手を結んだ国司が税の徴収を免除するといったことが横行したため、初めての荘園整理令である「延喜の荘園整理令」(902年)が出されたことはすでに書きました。しかし、その荘園整理の実務を院宮王臣家と癒着している国司に任せたため、実効的な成果を上げることはできずに不徹底に終わったのでした。

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◯このままでは安定した税収が得られず、朝廷の財政難は解決できません。そこで、「延喜の荘園整理令」に失敗した朝廷は、10 世紀以降、行政改革を行い、郡司の権限の縮小を行い、代わって国司の権限を強化します。具体的には、それまでの郡司が持っていた租税の取り立てや管理・運用等の権限を国司に移譲します。また、それまで郡司は国造など現地の豪族から任命されてきましたが、この郡司の選任も国司の権限にします。これによって郡司の役割は著しく低下します。

◯では、なぜこのような行政改革を行ったかというと、財政の悪化を補うための税収を確保するためです。初期荘園の頃は、郡司の在地支配力に頼って税を集めることができましたが、院宮王臣家に保護された「富豪の輩」の出現によって、郡司の在地支配力が及ばない状態に陥ったからです。政府は従来の律令制度下における、国司と郡司の二重の支配体系による地方支配の在り方を大きく転換せざるを得ませんでした。そこで、地方の行政はすべて国司に任せ、その代わり任地から一定額の税の納入を義務づけることにしたのです。要するに、ノルマの税収さえ確保できればあとはそこで何をしてもよいというわけです。これ以降、国司はいわば徴税請負人としての性格を強めていきます。

◯「何をしてもよい」とはどういうことかというと、たとえばノルマ以上に税を徴収して、ノルマを超えた余剰分については自分の取り分として私腹を肥やしてもいいということです。ですから、多くの国司は任期中に搾り取れるだけ搾り取ってやろうと考えます。また、朝廷としてはとにかく税収さえ確保してくれればいいわけですから、国司に任命されても自らは赴任せず、代理の人間を立てて派遣することも認められました。任国に赴任した国司(守)は「受領」、代理の人間に赴任させる国司を「遙任」、そしてその代理の人間を「目代」といいます。

◯こうして国司の権限が強まると、国司の仕事というのは巨額の利益を得られる、いわば「おいしい」仕事ということになり、賄賂を渡して国司になろうとする者も現れます。このような行為を「成功」といいます。また、国司の任期は4年ですが、任期満了後も賄賂を渡して再任しようとする者もいました。これを「重任」といいます。こうして国司の地位は利権視されるようになりました。

◯しかし、地方の民衆たちは当然国司の搾取に苦しみ、不満を募らせていくことになります。こうした政治的腐敗が、平将門藤原純友といったカリスマが現れたときに爆発していくことになったのです。彼らの起こした反乱があそこまで拡大したのは、国司に対する地方民の不満が駆動させたといっても過言ではありません。

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