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《第二次世界大戦》なぜドイツとソ連は歩み寄ったのか?~独ソ不可侵条約の衝撃~

◯第二次世界大戦前、ドイツとソ連はそもそも敵対し合っていました。ヒトラーは『我が闘争』の中でも述べているように、かねてから「東方生存圏の獲得」「スラブ民族の奴隷化」を目標に掲げていたからです。

「東方生存圏」というのは、ドイツの東方にゲルマン人(ドイツ民族)の 「生存圏」(レーベンスラウム)を獲得するという思想です。ドイツの東方といえばポーランドチェコスロヴァキアなどスラヴ人が多数派を形成する「スラヴ人国家」がひしめいています。そのため、東方に進出しようとするには、これらのスラヴ人国家との戦いは不可避です。

〈地図〉第一次世界大戦後のヨーロッパ

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◯しかし、「ゲルマン民族こそ選ばれし民族」としてスラヴ人をユダヤ人に次ぐ劣等民族としてみなし、強制移住させるかゲルマン人の奴隷になるべきだというのがヒトラーの考えです。言わずもがなロシア人スラヴ諸民族の盟主を自認し、バルカン半島に居住するスラヴ民族の統一を旗印とするパン=スラヴ主義を掲げてきました。いわば水と油の関係です。だからこそ両国が手を結ぶなどあり得ないと考えられていたのです。

◯しかし、それが突然、まるで手の平を返すかのように、1939年8月にドイツとソ連との間に独ソ不可侵条約が結ばれたのです。不可侵条約というのは、互いに攻撃をしないことを約束した条約です。

◯では、なぜ独ソ両国は歩み寄ったのか?

◯まずはドイツの思惑ですが、ヒトラーとしては「東方生存圏の獲得」という路線に従って、ポーランド侵攻を行うことを計画していました。それはポーランドからダンツィヒポーランド回廊を奪還するためです。

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ダンツィヒポーランド回廊も、ドイツ本国とドイツ領東プロイセンとの間に位置する地域です。もともとはどちらもドイツ領西プロイセンに属する地域で、ダンツィヒは第一次世界大戦まではドイツの重要な貿易港として繁栄してきた港湾都市でした。しかし、ポーランドにバルト海への出口を与えるために1919年のヴェルサイユ条約によってドイツから切り離されます。そして、どの国にも属さない国際連盟管理下の自由市とされ「ダンツィヒ自由市」あるいは「自由都市ダンツィヒ」と呼ばれるようになります。ただしそれは形式上であって、外交関係と関税はポーランドが管理しましたし、ポーランドの海の玄関口となったためポーランド軍が駐屯しました。だから、事実上はポーランドの影響下に置かれていました。

ポーランド回廊も簡単に言えばドイツ領だった西プロイセンのことです。しかし、やはりヴェルサイユ条約によってポーランドに割譲されました。これによってドイツ本土と東プロイセンが分断される形となり、東プロイセンがドイツの飛び地となったのです。「ポーランド回廊」という呼び名は、ドイツ本国とドイツ領東プロイセンとの間を結ぶ渡り廊下のような形となったためにこう呼ばれます。国際連盟管理下の自由市となったダンツィヒ、ポーランドに割譲された旧西プロイセン(ポーランド回廊)、いずれの地域も住民の大多数はドイツ人でしたので、ナチス=ドイツはこれらの地を奪回することを強く掲げていました。

◯ここに至るまでに、すでにヒトラーは1938年3月オーストリアを併合し、1939年3月にはチェコスロヴァキアを東西に解体して支配下に入れていました(チェコスロヴァキア解体)。

◯こうしてオーストリアチェコスロヴァキアがドイツの支配下に置かれたとなると、「東方生存圏」の残りはドイツと完全な隣国となったポーランドのみになります。

1939年3月、ドイツはポーランドに対してダンツィヒポーランド回廊の割譲を要求します。具体的にはダンツィヒのドイツへの編入の要求、そしてポーランド回廊を通過して東プロイセンとドイツ本土を結ぶ治外法権の鉄道と道路の建設の要求です。しかし、ドイツの要求に対し、ポーランドは拒否しました。こうなると武力で奪い取るしかありません。

◯しかし、ヒトラーはこのポーランド侵攻にあたり、フランスとの戦争は不可避であるという考えます。というのも、1925年12月に結ばれたロカルノ条約において、フランスチェコスロヴァキアポーランドとの間に相互援助条約を締結していたからです。これは、ドイツを仮想敵国とし、ドイツがフランスチェコスロヴァキアポーランドのいずれかに対し武力行使をした場合、相互に支援することを約束したものです。だから、ポーランド侵攻を行えば、フランスが宣戦布告をしてくることが予想されました。もちろんフランスが宣戦布告するとなると、ヒトラーに対して宥和政策を採り続けてきたイギリスもさすがに黙ってはいないでしょう。

◯フランスとの戦争で問題になるのがソ連の存在です。フランスとソ連は1935年5月仏ソ相互援助条約を結んでいました。これは3月にドイツ再軍備を宣言し、徴兵制を復活させたことに脅威を感じたことから成立したものです。フランスと戦争をすると、そのフランスと同盟関係にあるソ連が後方から攻めてくることが予想されました。ドイツの第一次世界大戦における敗因は、西部戦線でイギリス・フランスを相手に戦い、東部戦線ではロシアを相手に戦うという二正面作戦を採ったことでした。そこで仏ソとの二正面作戦を回避するために、フランスと戦争している間はソ連に中立を保たせる必要があったのです。だからドイツはポーランド侵攻を行うにあたり、ソ連との間に独ソ不可侵条約1939年8月23日)を締結したのです。

◯政治的イデオロギーの異なる両国が手を結んだことは「悪魔の結婚」などと称され、世界中に大きな衝撃を与えました。

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*ポーランド分割占領をしたのちに独ソ不可侵条約が結ばれていたことを知ったイギリスの新聞に掲載された風刺画

ソ連を仮想敵国とするという秘密協定を含む日独防共協定をドイツと結んでいた日本でも、当時の平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と狼狽し、「我が国が従来準備してきた国策はひとたび打ち切り、別途、新たな政策を樹立する必要がある」という声明を出して総辞職してしまいました。

◯今見たのは、独ソ不可侵条約のドイツ側のメリットです。しかし、両国の利害が一致しなければ条約は結ばれません。つまり、ソ連側のメリットもあるはずです。次はそのソ連の思惑を確認します。

◯上述したように、1936年11月に日本とドイツは日独防共協定を結んでいました。これは秘密協定でソ連を仮想敵国とするという内容を含むもので、翌37年にはイタリアが参加して日独伊三国防共協定となります。

独ソ不可侵条約が結ばれる1939年というのは、満州においてソ連は日本と国境紛争を引き起こしていた時期です。日本は満州事変によって満州全域を支配下に収め、1932年に満州国を打ち立てました。それによってソ連と直接に国境を接することとなり、以降、満州国とソ連およびその衛星国のモンゴル人民共和国との間で国境線を巡って紛争(日ソ国境紛争)が生じていたのです。満洲国とソ連の国境線を巡って発生した張鼓峯事件(1938年7月~8月)、満州国とモンゴルの国境地帯で起きたノモンハン事件(1939年5月~9月)などが有名です。
*まさにこのノモンハン事件の戦闘中の8月に独ソ不可侵条約が締結されたのですから、日本は大きな衝撃を受けました。

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◯ソ連のスターリンとしては、東方に領土拡張を画策するドイツとはいずれ衝突するのが避けて通れないことは重々承知していました。しかし、今ドイツと戦端を開くことは得策ではありません。日独防共協定を大義名分に背後から日本が宣戦布告をしてくる可能性があるからです。実は、ドイツが英仏とソ連による挟み撃ち(二正面作戦)を回避したかったのと同じように、ソ連もドイツと日本による挟み撃ち(二正面作戦)を回避したかったのです。

◯また、この当時ソ連は、スペイン内乱で人民戦線を支援せずに不干渉政策を採ったり、ミュンヘン会談によってチェコスロバキアの一部であったズデーテンをドイツに割譲することを認めたりしたイギリス・フランス両国に対する不信感を募らせていました。特にミュンヘン会談はその不信感を決定づけたといえます。

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◯チェコスロヴァキアの北西部、ドイツと国境を接するズデーテン地方は第1次世界大戦後に旧オーストリア帝国から独立したチェコスロバキア共和国に編入された地域です。住民の80%(300万人以上)がドイツ人であったこともあり、1930年代にヒトラーが登場してドイツ人の「東方への生存圏の獲得」そして「ゲルマン民族(ドイツ人)の統一」を掲げて活動するようになると、民族感情を刺激されたズデーテンのドイツ人たちはそれに呼応するように「民族自決」を唱え、ドイツとの統合を主張するようになっていました。

◯こうした中、1938年9月、ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているとしてズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助するとの演説を行い、チェコスロバキア政府に対してズデーテンの割譲を要求します。しかし、「民族自決」は大義名分で、このズデーテンは地下資源が豊富な地帯で軍事・産業上の重要性が高いことから、ドイツの支配下に組み込みたいというのが本音でした。

◯もちろんチェコスロバキア政府は当然、ヒトラーの要求を認めるはずがありません。チェコスロバキアはソ連・フランスと相互援助条約を結んでいたことから、ベネシュ大統領はこの要求に抵抗します。しかし、強硬姿勢のヒトラーはチェコ国境に軍を結集させ、軍事行動に出る構えを見せます。すると、ヨーロッパの平和を維持するために、ドイツに対する宥和政策を採ってきたイギリスネヴィル=チェンバレン首相が間に入って話し合いの場が持たれることになりました。チェンバレンは空路ドイツに飛び、9月15日にベルヒテスガーデン会談、22日にゴーデスベルク会談と話し合いを重ねますが、ヒトラーは一歩も譲らず「世界戦争も辞さない」という強硬姿勢を貫きました。そして9月26日にチェコスロバキアに対して、2日間以内にズデーテンの割譲を無条件で受諾しないなら戦争を開始すると最後通牒をかけます。

◯戦争回避が困難を極める危機的状態の中、自分の力では抑えが効かないことを悟ったチェンバレンは、ヒトラーが尊敬するイタリアムッソリーニに調停を依頼します。これによって回答の期限を10月1日まで延ばすことに成功し、その間に開催されたのがミュンヘン会談です。

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◯こうしてムッソリーニの仲介によって開催されることになったミュンヘン会談ですが、参加者はネヴィル=チェンバレン首相(イギリス)・ダラディエ首相(フランス)・ヒトラー(ドイツ)・ムッソリーニ(イタリア)。

◯驚くべきことに、当事国であるチェコスロヴァキアのベネシュ大統領は呼ばれなかったのです。そして当事国不在のミュンヘン会談で、ドイツがこれ以上の領土要求をしないことを条件に、ドイツのズデーテン併合が認められることになります(ミュンヘン協定)。要するに、戦争を避けるためにチェコスロヴァキアは見捨てられたのです。

◯また、イギリス・フランスとともに国際連盟の常任理事国である上に、チェコスロヴァキアと相互援助条約を結んでいたソ連も呼ばれませんでした。この会談にフランスが呼ばれたのは、フランスとチェコスロバキアが相互援助条約を結んでいたからです。しかし、それならソ連にしても同じ立場です。さらに、チェコスロヴァキアはソ連と国境を接する隣接国ですから、ソ連の安全保障上、ドイツの軍事力がチェコスロヴァキアに侵食してくることには大きな警戒心を抱くのも当然です。

◯しかも、ミュンヘン協定からわずか半年後の1939年3月、ヒトラーはミュンヘン協定を無視し、チェコスロヴァキアの併合に向けて動きます。ミュンヘン会談での経験は、ヒトラーに「英仏は動かない」という確信を与えたのです。そしてベネシュに代わって新たにチェコスロヴァキアの大統領に就任したハーハをベルリンに呼びつけた上で軍事行動を示唆して脅迫し、チェコスロヴァキアをドイツに併合することを認めさせます。その結果、ドイツ軍はただちにチェコスロヴァキアを占領、東西に解体して併合しました(チェコスロヴァキア解体)。
*西半分のベーメン(ボヘミア)メーレン(モラヴィア)を保護領として事実上併合、東半分のスロヴァキアは保護国として独立を認めたのですが、実質的にはドイツに従属しました。

◯本来ならばロカルノ条約に従ってフランスはドイツに宣戦布告するべき事態が起こったわけですが、このような事態に及んでもなお、ドイツに対して宥和政策路線を採るイギリスと同様にフランスは動きませんでした。

◯このことによって、ソ連はイギリス・フランスはドイツの勢力を東側に勢力を延ばすことを許して、やがてソ連と衝突することを待っているのではないかと考え、不信感を強めることになったのです。

◯そんな折にドイツからもちかけられた独ソ不可侵条約。ヒトラーとしてはポーランド侵攻を成功させるためにはソ連の好意的中立が必要でしたから、独ソ不可侵条約の秘密条項にソ連にとっても利益のある内容を盛り込みました。それがポーランドをドイツとソ連とで東西に分割するというものです。

◯実は、ドイツがポーランドの西側にあるダンツィヒとポーランド回廊を奪還したかったように、ソ連もポーランドの東側にあるベラルーシ西部ウクライナ西部を奪還したいという願望があったのです。この地域は1919~21年に起きたソ連=ポーランド戦争によってポーランドに奪われていたからです。ソ連が領土的野心をもつベラルーシ西部ウクライナ西部を保証してくれるというのは願ってもない話です。

◯さらにヒトラーはそればかりかフィンランドエストニアラトヴィアソ連が、リトアニアをドイツが併合するということも秘密条項で約束しました。ポーランド侵攻を黙認してもらう代わりに、ソ連の国境沿いの国と地域をソ連が併合することをドイツも黙認するというわけです
*リトアニアについては初めはドイツの勢力範囲とされましたが、のちに修正が行われてソ連の勢力範囲にすると改められました。

◯バルト三国の併合は、バルト海への出口を確保することを念願としてきたソ連としては願ってもない話です。また、ルーマニア領ベッサラビアもソ連が併合することを認めます。ベッサラビアは1812年以来ロシア帝国の一部でしたが、1918年にルーマニアがロシア内戦の混乱に乗じて併合した地域です。

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◯今見たように、①満州における日ソ国境紛争、②英仏への不信感、③独ソ不可侵条約の秘密条項、これらがソ連をドイツに接近させる大きな背景になったことは間違いありません。しかし、実はそれ以上により深刻な事態がソ連にはあったのです。それは、1937年から38年にかけてスターリンによって「赤軍大粛清」と呼ばれる大虐殺が行われたことで、ソ連赤軍は瓦解寸前の状態に陥っていたことです。このわずかな期間のうちに赤軍全体で4万名以上が粛清されたといいます。だからソ連としては、とてもではないですが戦争を行う余裕などなく、赤軍大粛清で弱体化したソ連軍を再建するための時間を稼ぐ必要があったのです。こうしてお互いの思惑が一致したことにより独ソ不可侵条約が実現したのです。



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