発信者の意図は確証できなくて当たり前

 「嘘と間違いとフィクションの違い」の回で、虚構言説と非虚構言説の違いが、本文の内容ではなく発信者の意図にある、と書きました。
 このうちフィクションは、その意図が本文外で明示されています。「小説」として発表されているとか、「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体との類似云々は……」という但書がついていたり。ですから、これはわかりやすい。

 いっぽう、「正確なノンフィクション」「嘘(人を騙すノンフィクション)」「間違い(誤認のあるノンフィクション)」は、発話の段階ではすべて同じ「(正確な)ノンフィクション」のカテゴリに属する言説として発話されます。

 「正確なノンフィクション」と「嘘&間違い」の判別は、事実との照合によってなされます。しかし多くのばあい、事実との照合作業自体が裁判の争点になることからもわかるように、照合は不可能なことがあります。
 また「嘘」と「間違い」の判別は、発信者が自分の言説を信じていたのかどうか(発信者に騙す意図があったのかどうか)で判別します。けれどこれも、発信者の意図というものは心のなかの話ですから、最終的には確証できません。

 ということは、ある発話が「正確な非虚構発話」なのか「噓」なのか「間違い」なのか「虚構」なのかということも、発話者の意図をもとにして確証することは、完全にはできない、ということになります。

 では、「嘘と間違いとフィクション」という区別には意味がないのでしょうか?

 発信者の意図によらずに、これらの概念をもっと正確に区別できる方法があるはずだ、とお考えの人は、僕としても興味深いので、皮肉ではなく本心からその定義を見てみたいです。納得したら、ここまで紹介してきた定義からそちらに乗り換える必要があるからです。

 それとも、こちらが推測する発信者の意図がほんとうに当たっているかどうか知りえない以上、これらの区分自体に意味がないということでしょうか? そう考えたとしたら、前回と同様に、概念の話を個別事例の話と間違えていることになります。

 そもそも、「小説」「ドラマ」と銘打って販売・放送されているコンテンツと違って、人の発言や報道記事のなかには、それなりの確率で間違い(誤報)や嘘(フェイクニュース)が混じっています。

 人の発言や報道記事が「ほんとうにほんとうのことである」ということ自体、まったく保証されていません。だから僕たち人間は他人の意図を推測するしかない。そうやって騙されたりすることがあるのが世界というものなのです。

(つづく)

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