フィクション? ノンフィクション?

 マルグリット・デュラスや堀江敏幸といった作家の作品のなかには、身辺を回想したノンフィクションなのか小説なのか容易に判別しがたい散文があります。後述するように「私小説」「記録小説」という分野もあります。

 またそもそも、抒情詩という分野は、あきらかに作り話として発話しているものもあれば、実話として発話されているものもあり、さらにはそのどちらなのか判明しないものもあります。そもそもそれが「どちらなのか」ということがあまり問題にならない分野だといえます。

 こういったさまざまな作例は、フィクションとノンフィクションとの区別への反証となるのでしょうか?

 もしそう考えたとしたら、あなたは「個別」と「普遍」とか、「個物」と「概念」とかをごっちゃにしています。性分化疾患やインターセクシャルといった、第一次性徴で性別が判別できないケースが少数ながらあるからといって、「男」「女」という区分に意味がなくなるわけではありません。

 「フィクション」「ノンフィクション」というのは、事例(トークン)の話ではなく、カテゴリ(タイプ)の話です。個々の発話事例が両者のいずれかに必ず分類できる、という個別事例の話ではありません。
 人間が──後述するように、近代人が──このふたつの概念を持っていて、それぞれの概念に当てはまる話の前では(本章で書いたように)期待のしかたが違う、ということです。

 そもそも「フィクションともノンフィクションとも分類できない散文物語が存在する」とか「実話と虚構の区別が困難なばあいがある」という発話自体が、「フィクション」と「ノンフィクション」というふたつの概念を使いこなしているからこそできるのです。

 先に述べた「男」「女」に見られるように、区分というものが人間の思考に必要であるかどうかと、その区分がこの世界のすべての事例を完全に分類できるかどうかとは、しばしば関係ありません。区分が有益であるために、後者の条件を満たす必要がないこともあります(もちろんその区別が同時に不便をもたらすこともあります)。

 「すべての事例を完全に分類できない区分は意味がない」などというのであれば、TVドラマのなかの殺人場面の前と、自分宛の請求書の前とで、人間の態度が変わるはずがありません。朝刊に印刷されている新聞小説と、朝刊に印刷されている税制改正の記事とを前にして、取る態度は違うはずです。

 なお前段落は、「言葉で表現されたものは言葉であって、指し示されている現実の事態とはべつものなので、すべてフィクションである」という誤った用法にも当てはまります(むかし、探偵小説批評の公募原稿にホントにこういう議論をしたものがあったんですよ)。語(記号)とその指示対象とが違うのはごくふつうのことで、「うちの猫」という文字列はうちの猫そのものではありません。

 ふだん、個別事例のことばかり考えている人は、概念を概念として考えることにも、また個別事例と普遍概念とを混同せずに区別して考えることにも、慣れていません。
 この一連のnoteエントリで述べていることは、虚構言説と非虚構言説とでは疎通(コミュニケーション)の条件が違うということです。そこでは「いつも区別できるとは限らない」という個別事例の話は、最初から織りこみ済みなのです。その「いつも区別できるとは限らない」という意見自体が、両概念の相違(ひいては「虚構」「非虚構」)への期待の違い)を前提としなければ成立しないのですから。

(つづく)


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