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清里高原の発展に人生を捧げた「ポール・ラッシュ」

こんにちわ!

今回の記事で紹介したいのは、山梨県にある清里高原の発展に人生を捧げた「ポール・ラッシュ」という一人のアメリカ人。

この方、あまり知られてないかもしれないんですが、本当にたくさんの功績を残した方なんですよ!!

関東大震災をキッカケに来日

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ポール・ラッシュ。

アメリカに生まれ、元々は母国でホテルマンを目指うことを夢見ていた青年だったポール。ところがどっこい、日本で関東大震災が発生し、東京や横浜のYMCA会館を再建するために基金が十分な額に達したため、その再建委員の一人に指名されたことで日本へ来日することになります。

その後、ポールは立教大学の教職に就き、まだ発展途上だった大学に大きく貢献することになるんですね。今でも、立教大学の応援歌にはポールの名が付いた曲が残っているんですよん!!

さらにはアメリカンフットボールの普及にも貢献したり、美容界にも少し関わったりと多くの功績を残したポール。

さらにさらに、ポールは聖路加国際病院の復興にも携わりました。

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これは、ポールの師ともいえるトイスラ―博士の誘いによるものでした!

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聖路加国際病院は、1995年に発生した地下鉄サリン事件の被害者の方を多く運び込んだ病院であり、当時の院長だった名物医師の日野原重明さんの判断のもと、院内の教会を緊急開放して治療に当たったことでも知られる病院でした。

この病院の歴史を振り返ると、元々はルドルフ・B・トイスラー博士によって築地のバラック小屋のような木造施設で貧しい人たちを対象に医療の充実を図ってきた病院だったんですね~。

そこで、トイスラ―博士はこの病院を建て直すためにアメリカへ募金活動に出かけることになり、そのパートナーとしてポールを選んだのです。

ポールは最初は「え~マジで~」って感じでしたが、結局この募金活動の経験が、後の清里高原開拓の資金集めに役立つことになったんですね~!

厳しい高冷地で酪農を!

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そんなポールは清里高原にも関わりをもつようになります。

それは、日本キリスト青年会の方々を民主主義国家の日本で育成していくにはキャンプが必要だと考えていたから。キャンプって言っても、YouTuberがやるようなものではなく、各自がリーダーシップを持って物事に取り組むというレクリエーションを行うもの。

その候補地に選ばれたのが、清里高原だったんですね。

そして、ポールは清里という場所を農村伝道のモデル拠点にしようと考えます。「農村伝道のモデル拠点」とは、日本に多い農村が自立して一次産業を行えるようにし、成功した暁にはそのノウハウを他の農村にも広めていくということ。

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結果的に、高冷地でも酪農がおこなえるようにポールはジャージー牛を清里へ運び込んみ、さらには高原野菜の栽培を行えるようにしたことでこの難題をクリアしていきました。

今でも、清里高原には多くの観光客が訪れ、清里で育てられたジャージー牛の牛乳が販売されているんですよね。ポールの貢献によって今でもこうして高冷地酪農が続いていると考えると、なかなか感慨深いものがありますわ!

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この清里高原は、大正の頃までは人が暮すには大変厳しい場所だったそうです。ここは東京の水源になっている小河内ダム(奥多摩湖)で土地を奪われた方々が移住してきた場所でもありました。

基本的に日本ではインフラが整っているので、よほどの山奥じゃない限りどこでも暮らしてはいけますが、ここは大正時代では電気が通っていないためランプ生活。

そして冬はとにかく寒くて寒くて、、、家族皆が寄り添って暖を取るような生活を送っていたようです。

そんな歴史を経て今の清里があると思うと、とても感慨深い。。日本中のどこにでも、いろんな先人たちの苦労や努力があって今の生活があるわけだ。そう思うと、今の生活によるありがたみが感じられるものですな。

ポール・ラッシュ記念館

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そんな清里高原の発展に捧げたポールのことは、ポール・ラッシュ記念館でも学ぶことができます。

この博物館は、ポールの生涯に関する展示とポールが晩年暮していたポール邸の内部を鑑賞するという二部構成。

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ポール邸は今や寝室や食堂などなど、洋風チックな雰囲気でなかなか見ごたえがありました。ポールは晩年は心臓病を患っており、亡くなる前は寝たきりの生活を送っていたそうです。

という感じで、すげぇ~さらっとポール・ラッシュという人物に関して紹介させていただきました!!

もっと詳しくは、私のブログで掘り下げていますので、こちらも良ければ見てみてくださいね〜〜(⌒▽⌒)

ではでは~~~!

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