「ことば」を放つのって結構怖い
だって、自分が放ったことばの向こうには人がいる、いや、「人の心」があるじゃないですか。
案件記事で「読み手」を意識するのは当然だけど(というかそれが仕事)、それはもちろん個人的なSNSでも同じことで。
目的がなんだろうが、媒体がなんだろうが、その画面あるいは紙ペラの向こうにはどうしたって「人の心」が存在する。
当たり前のことだし頭では分かっているけど、実感が湧きにくくてすぐに忘れてしまいがちなこと。
だからそれをふと、まざまざと感じたとき、ことばを放つのが、ものすごく怖くなることがある。
好き勝手に書くをポリシーにしているこのnoteだって、実は結構怯えながら書いてるんですよ。
あ、いま「どこが?」と思ったでしょ。
その気持ちは、まあわかる。
いや、でも冗談抜きに誰に届くかわからない恐怖ってあると思うんです。
インフルエンサーでもない一般人のSNSなんて、そんなに見てる人はいないよ、と言われるかもしれません。そう、たしかに数は多くない。
でも、こんな人にも届いたんだとハッとすることはある。
自分から拡散した友だちや、Twitterのフォロワーさんに読まれるだけかと思いきや、どこから見つけてくれたのかさっぱり分からない人からスキがくることって結構あるんです。
そのたび、本当にびっくりするくらい手軽に物事が広まる時代だな、と感心する一方、怖くもなる。
何が怖いって、この広まった先にあるたくさんの「人の心」には、傷つきやすい心もあれば、結構頑丈な心もあるし、私と近い価値観の心もあれば、真反対の心もある。
だから、思わぬことで勇気づけることもあれば、思わぬことで傷つけることだってある。
だから、誰も傷つけない文章は不可能だけど、そうであってほしい、少しでもそこに近づきたいと望まずにはいられないのです。
もう耳タコな話だろうけど、ことばは温かいブランケットにも鋭いナイフにもなるからさ。
好き勝手に放ったことばが、通りすがりの人の頬を掠めるナイフになってしまうことが、ある。
良かれと思って選んだことばが、実は相手の心をズタボロにしてしまうことも、ある。
あるいは大きな一撃にはならずとも、指に刺さって取れない小さなささくれの如く、じんじん鈍い痛みを与え続けてしまうことだって、ある。(ある意味チクチクことばだぜ)
……急にこんなことを書いて、驚かせたかもしれませんね。別に私が最近誰かに何か言われた、とかではないので安心してください。
私はいたって元気です。こないだ仕事で目の保養がたくさん視界に入ってきたし。すみません、これは要らない情報でした。
ただ単に、ナイフに近いことばが目に入るたび、心臓がキュッとしてしまう性なもので。隣で同僚が怒鳴られると、自分に向けられていなくても、怯えてしまうのとたぶん一緒。
でも別に「こういう言い方はやめようよ!」と言いたいわけでもありません。
誰もが自由に発言できる時代。
誰かの発言に私がとやかく言う権利はありません。
愚痴をこぼしたい日もある、それを知り合いにこぼすのは違うという日もある、紙に書き出すだけでは釈然としない日もある。
そんな日々は私にもあるからよーくわかります。
ただ、
『あなたのことばも、結構いろんな人に届く』
『あなたのことばにも、ちゃんと重みがある』
ということには、みなさんにも気づいていて欲しくて書きました。
これは良くも悪くもです。
「私一人の声なんて」と思っても、それがたくさん集まれば大きなムーブメントになることもある。
「私一人の声くらい」と思っても、それをたくさん投げつけたら壊れてしまうものもある。
偉そうにいう私だって、あぁ傷つけてしまったと反省することがあるし、それに気づけてすらいないことも、きっとあると思います。
なんと恐ろしいことだろうか。
それでも、できる限り温かいブランケットのほうを世に放てるよう、日々ごにょごにょ考えを巡らせるわけです。
まだまだ半熟にも満たない、未熟な卵なりに🐣
生きてるあいだに半熟くらいにはなりたいよな。
卵は半熟が一番おいしいんだから。
いや、やっぱり温泉卵かな。
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