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人である以上

人であるということが当たり前にそこになくて、人とは何か、をはじめに定義してから再現をしている。みんなもそうではないのだろうか?

人として当然の欲求とか反応とかに、一時的に距離を置くことが昔からできた。はじめはそれが大変賢いことのように自覚していたからとても威張っていたんだけど、本当の賢さとは素直さじゃないのかと気づき始めて、素直さを再現することはできないことに気がついた。

自分の意思とはなんだろう、ありのままとはなんだろう、人間らしさはよく知っているけど、自分らしさはなんにも知らない。どうしたいの?どうなりたいの?と聞かれて今は人でありたいですとしか答えられない。何もわからない。

わかったことにしているのだろうか、みんな?
それとも、本当にわかっていて、僕や僕と同じように苦悩する少数の人々が素直さの才能に恵まれなかったのだろうか?

飼い慣らすだとかガンギマリだとか、自分のことをわかって、本質的に満たしてやりたい気持ちが人一倍強い。それは満たされたことがないからだ、満たされるという状態がわからないから、必死に頭を絞って、好きなもの、とか心地よいこと、とかを対照実験して定義していっている。たぶんこれが好きなはず、たぶんこれが気持ちいいはず、そして明日になればそれはもうぜんぜん気持ちよくない。

本質なんてないくて、いま現段階で本質じみたものに思考停止するしかなくて、目の前のことに集中するとはそういうこと、いつまでも自分を探していたら、目の前の人にも、経験にも、どんどん置いていかれてしまう。

いま僕は、僕をここに繋ぎ止めておくことに必死だ。集中力があまりにもない。なかったことにようやく気づいた。目の前の人の話も、何にも聞いてなかった。目の前で起きてることも、なんにもわけがわかっていなかった。こうやって存在しない自分を探し続けて、なんにも大切にできないまま終わるのだろうか。

それはたぶん嫌だ、嫌だという自分はいるらしいことはたぶん確定してる。目の前のことを大切にしたい、生きてることを実感したい。だから繋ぎ止める術を社会から学んでいる。実態のない本質を探すことを、諦めたわけじゃなく、目の前の事事の積み重ねの末に、完全ではないが、一個人の人生としてたどり着けうる不完全な本質じみたなにかに納得をして死んでいく、それを目指したくなった。頭の中で完結するにはこの世は結局楽しそうすぎるのだと思う。羨ましい、楽しんでいる人たちが。はじめから楽しんでいた人たちが。正直妬ましい、恨めしい、でも超羨ましい。僕もそうなりたい。

僕は僕でありたい。僕という定義から入るのではない、圧倒的ここに、前提もなにもなく、超原始的に存在する、足立1000000000000000000%。疑う余地のない、なんの乖離もない、素直で赤ん坊のようで反射的でノータイムで反応をする、動物のような愚かさの片鱗に、まずは触れたい。その感覚を、気持ちよさを知りたい。理性はそのあとでいいかもしれない。もうちょっと僕は動物になることが、きっと必要なのだと思う。だからちょっと、ちょっとしばらくいろんな意味で完全感覚で、少しの火事は成長の副作用として、自由になってみたいと思う。人は傷つけない。これだけは絶対。

終わり。はらへった

もっとおもしろくなりたいです