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城崎meets大道芸終演ー危惧と祈りー


「城崎meets大道芸終演ー危惧と祈りー」2021.3.24

乱筆失礼、気持ちが冷めないうちに。


はじめに、共催頂いた豊岡市、ご協力頂いた城崎温泉観光協会、温泉寺の皆様に感謝いたします。

そして、コーディネーターの松岡大貴さん、渡辺瑞帆さん
地域おこし協力隊として活躍されているお二人の、時間をかけた城崎との交流がなければ決して実現しなかった企画でした。
ありがとうございました。

そして今回、フェスティバルの進行諸々を引き受けてくださった制作・奥村優子さん。様々な大道芸フェスティバルやサーカス運営に関わり、今も現代サーカスを育み開かせている奥村さんならではの芸空間への気配り、心強く、感動しました。感謝してもしきれません。

そして、スタッフ(豊岡市で地道に活動を続けていらっしゃる地域おこし協力隊の方々、城崎国際アートセンタースタッフとして活動されている方、音楽の現場に携わっている方、演劇を学んでいる学生の方、、。)の経験や真剣さからくる現場・観客に対する丁寧な対応に城崎meets大道芸は支えられ、成立しました。ありがとうございます。

足を止め楽しんでくれた皆さん、足を運んでくださった皆さんも、ありがとう!

私の視点から、このフェスティバルを振り返ってみようと思います。

城崎meets大道芸の初動から携わらせてもらった、私の中に貫かれていた大道芸人としての意志について。

城崎meets大道芸は「意志のある」大道芸フェスティバルでした。

美しい演目、可笑しい・ビックリ!のクラウン芸など、盛り上がったのは勿論の事、直視し続けることが辛くなるような、生々しい演目・瞬間もありました。

その様々が「在れた」ことについて、いかにそれが重要な事であったかを記したいと思います。

今回初めて大道芸と出逢った方は、高さや面白さ、通行人や観客を巻き込む芸、圧倒的な技術などにまず、驚いた事でしょう。
そして何より、

*現場の光景(繋がり・あらゆる個が在れる路上空間)に驚いたのではないでしょうか。*


街行く人を集め、盛り上げ、人垣を作り、稼ぐ芸人は沢山います。

「盛り上がった街の様子」や「こどもの笑顔」だけを欲するならば、それを引き出す・生み出す事の出来る芸人は沢山いるのです。

その様な芸に頼り、一時的消費を繰り返し、何になるのかと、私は芸の道を歩みながら感じてきました。

出来るなら、同じ芸人を三度は見てみてください。初見では技や新しさに目がいくかもしれませんが、次第に芸人の本質が見えてくると思います。

空間に心を傾けている芸人は少ないのです。

街も、人も、真っ当に、成熟して行かねばならない。

私は芸人であるため、いい芸ほど、危うく、ギリギリで己の命と会話をし、やっとこさ成り立っている事を知っています。「形」でない場所で勝負をし、またはそこに向かうような、「非商品」の形状をとっていると考えます。

その様な芸は拍手や感動の先、むしろ魂にまで届いてしまった場合、「対価」の観念が崩壊してしまうため、立ち去りたくさえなるかもしれず、投げ銭も入りづらいのです。

その様な芸はすぐに言葉で切り取られ、SNSで発信される事とは縁遠く、口には出せず、繰り返し足を運び見続ける事しか出来ないのではないかと感じます。よって、インターネットを頼りに見つける事は出来ません。その様な芸が、あるのです。

私はその様な芸に出逢うと震える人間ですし、実は今、多くの人が、そういうものを「見たい」と感じている時代なのではないでしょうか。

今回声をかけた芸人は、それぞれ現れ方は違えど、私から見れば、ある種の確かな眩(まばゆ)さを持った芸人たちでした。

驚いたのは

城崎で、雪竹太郎が受け入れられていた(時に見守られ、ある時は遠くから、ある時は熱いまなざしを注がれ、無事ショーを終えた)事実です。※他の出演者については「受け入れられないことはないだろう」という確信がありました。

今、この瞬間の街に息づく様々なもので織り成される彼の芸(人間美術館は無音、リコーダー演奏の回ではスピーカーから小さく音楽を流す程度)が、城崎である種の驚きを持って迎え入れられたことは凄いことだと思います。
包容力があり、成熟した眼を持った人間がいることの証。
静寂を味わう事が出来る、誇り高い街なのだと感じました。

その成立の裏には、「大道芸」を紹介する際の広報も影響していたのではと考えます。
例えば、フェスティバルの顔となるポスターとチラシのデザイン。
・商品化され消費されていく大道芸フェスティバル、大道芸業界に初めから問題提起をし続けてきた存在、大道芸人雪竹太郎をメインに起用したこと。
・芸人の姿だけを切り抜くのではなく、芸をしている空間を含めた写真による芸人紹介(大道芸は場所と切り離せない故)。
など、僕はこれらの作業に、大道芸・芸人に対する敬意を感じました。

芸人達は観客と交わり、気持ちよくショーを終えた様子でした。

今回、城崎meets大道芸に立ち会った皆さん、いかがでしたか?

その鮮度に驚き、その芸人が放つ気配そのものに
懐かしさを感じなかったでしょうか。

あの場に共にいた喜びや、偶然吹いた風が
まだあなたの中に残ってやいませんか?

「大道芸」のイメージが、変わった方もおられるのではないでしょうか。


観客・芸人・スタッフともに素晴らしく、反響もあった城崎meets大道芸ですが、
この興奮と感動に対し、私から伝えておかねばならないことがあります。

街は大きくなるにつれ、淋しさや弱さ、小ささ、たどたどしさを疎むようになります。

もし、この次があるとしたら、観客の反応や集客だけに眼を奪われないでください。

私の考える「芸人」は、路上(道端)で、時に本当に淋しく、惨めで、あまりにも裸です。(大道芸の場合、「芸術を見る」という視点で人々は眺めないのですから※それでいいのです。)
しかし、理解ある方は、諸々を剥ぎ取り次第に命に成り果てた芸人が、どれほど素晴らしい光であるかを見抜き、その芸が、目の前の観客を飛び越え、街の暖かさに貢献していることを感知するでしょう。

私がお願いしたいのは、その光(たとえ万人が理解できるとは言い難いものであっても)をどうか、経済的観点からのみの判断で、消さないでくださいということです。

今回の城崎meets大道芸はその様な光の粒子を携えた芸人たちが「在れた」、豊潤な空間だったと思います。

例えば私の大道芸は、"もう笑いたくない"と思っている人間の為にこそ在ります。
空っぽの人間の魂とこだまする為に在ります。


その場では完結しない、人間たちが紡いできた、空や街を飛び交う祈りについて。





知念大地


*追記

着眼点として。

一見ワイルド・危険なEPPAIが、何故、子どもたちからあんなにも愛されるか
現場の子どもたちは異様にワクワクし、そしてリラックスしている。

何故、雪竹太郎が立っている場所、芸をしている空間は変容するのか。
光が、空間が、身体が、混じってくる。

StreetEntertainerRYUの芸のあの輪郭
角が崩れて手になった。あの輪郭、が、触れている暖かさについて。
何故、皆が穏やかに(凄技を押し付けられるのではなく)見られるかの不思議について。

うつしおみ
目黒陽介の水の様なジャグリングと、声。単独者の気配。
長谷川愛実の「性別を売りにしない」ようせいの様な、子どものような、からだ(それは静かで、、それだけでなく、、)



このようなものを見抜き、腹に据えなければ
人はいつまでも
快感(または驚き)と上手く歩めない、快感の奴隷です。



ーーー

最後に、この文章の修正・校正に関わってくれた妻・知念史麻(劇団青年団・俳優)と「たじまアートキャラバン/知念大地大道芸・おどりチーム」制作・加藤奈紬さん(地域おこし協力隊)に、ありがとう。


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