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2020年12月たじまアートキャラバンスタッフ鈴木南音による寄稿文

「知念大地のこと:「場」を通して見ることについて」

鈴木南音

2020年12月、知念大地の「たじまアートキャラバン」に帯同し、豊岡市・養父市・朝来市のこども園・小学校、豊岡駅近くの公園で行なわれた全8回の公演を観た。
そのなかで、劇評の依頼を頂いたのだが、実はどのように言語化すべきか迷っていた。というのは、知念の芸が、ある意味で言語化を徹底的に拒むように作られていると感じたからである。

現代は、言語化が無批判に是とされる時代であるように思う。
もちろん、異文化との出会いが増える現代において、言語化は、意思疎通のための重要なツールである。私たちは、語りうるものを語り尽くすことでしか、語り得ないものに接近することはできない。しかし、その一方で、人々の言葉にならない声は、無きものにされつつあるように思う。教育の現場では、過度なメリトクラシー(能力主義)の潮流のなかで、本来、話し手と聴き手とのあはひにあったはずの人と人とのやりとりが、話し手の「コミュ力」だけの問題に還元されつつある。そのような価値観のもとでは、全てが、言語によって分割され、言語へと還元されてしまう。

一方、知念大地の大道芸では、言葉が発されることは、ほとんどない。観客とのやりとりの中で時々言葉が発されることはあるのだが、日本語で発された言葉であっても、あたかも外国の言葉のように聞こえる。それは、知念の言葉が、何かを伝えるための言葉というよりも、ひとつの「場」を現出させるための言葉だからなのだろう。知念の大道芸は、伝える/伝えられるの区別を超えている。
たとえば、豊岡市立資母小学校での訪問公演である。そこでは、子どもたちの何人かが舞台に上がり、ある子どもは知念とサッカーをし、ある子どもは猫のキーパーとなり、ある子どもは溺れている知念を助ける船員になるなど、子供たちもパフォーマーへと変容する。舞台には上がらなかった子どもたちも、ある者は焚き火を見るように、ある者はつぎのパフォーマーとして、仲間たちのパフォーマンスを見ている。そこでは、誰しもが、その「場」の一員であり、もはや伝える側/伝えられる側という区別はない。知念が現出させた「場」だけがあり、何もせずとも、ただそこに居るということが許される空間だけがある。

興味深く感じたのが、知念自身が、パフォーマンスのあと、何もせずとも「ただ居られる」ことの重要性をしばしば話していたということである。これは、かの社会心理学者エーリッヒ・フロムが用いた、”being”と"doing /having”の区分に対応しているように思う。すなわち、現代人は、何をしたのか/持っているのか(=doing/having)という軸だけで評価されがちであるが、人間(=human being)にとって、ほんとうに重要なのは、何をしたのか/持っているのかということではなく、ただそこにあること(=being)だということである(私は専門家ではないのでフロムの論旨に若干の記憶違いがあるかもしれないが、その点はご容赦願いたい)。重要なのは、伝える側/伝えられる側の境界を融解させ「場」を現出させる知念の大道芸が、人間(=human being)であることの肯定につながっているということである。普段、メリトクラシー=新自由主義的な価値観のもと、その能力や成績(=doing/having)を軸に評価されがちな学校という制度のなかで、ただそこに居ることを肯定する瞬間を作ることは、(学校に馴染めず休みがちだったかつての筆者のような)一部の生徒に救いとなることに間違いは無いだろう。知念の大道芸には、伝える側/伝えられる側の区別を越境する刹那が、たしかにある。

連日のパフォーマンスで最も興味深いと感じたのが、12月25日、クリスマスの日の夕方に、雪の降り積もったひまわり公園(豊岡駅付近にある川の上の公園)で上演された「おどり」である。
知念大地の「おどり」は、一般的に想定されるような(音楽に合わせて身体を動かすというような)おどりとは大きく異なっている。その「おどり」では、音楽が流されることはない。音楽の代わりに、その「場」に元々ある音や景観のなかで、知念の身体が、ただ揺蕩っている。その「場」において、観客たちは、知念の身体だけを見るのではなく、その「場」全体を見る。空、鳥の声、他の観客の息遣い、川のせせらぎ、雪の冷たさ……。全てが、知念の「おどり」の一部であると同時に、知念の「おどり」を含む全体であり、いわば、観客は知念の身体とともに世界を見ているのである。
メルロ=ポンティ(1964=2015)は、ラスコーの洞穴絵画を評して、「私の眺めている絵がいったいどこにあるのかを言うことは、私にはとても難しいことだろう。というのも、私は物を眺めるように絵を眺めているわけではなく、その絵をその場所に固定したりせず、まるで《存在》の周囲に広がる輪光のなかをさまようように私の眼差しは絵のなかをさまようからであり、私は絵を見ているというよりは、むしろ絵に即して、絵とともに見ているからである」と述べている。知念大地の「おどり」も、洞穴絵画のそれに近い。すなわち、知念の「おどり」を見るとき、観客の眼差しは、知念大地を見るというよりも、知念の身体を通して示された「場」をさまようのであり、知念の身体に即して、そして身体とともに、世界を見るのである。そこには、伝える者/伝えられる者という区別は、もはや存在しない。

この「おどり」は、見る者によっては、もしかしたら「わからない」という感想が最初に出てくるかもしれない。しかし、むしろそれは、正しい見方だろう。すなわち、知念の「おどり」の眼目が、分け隔てられること(=rational;合理化)へ抵抗し、生み出された「場」を通して人々や世界がつながることにあるのだとすれば、それは本質的に世界を分割する言語化の営みに抗うものであるはずだからである。その「わからなさ(=irrational)」は、きっと「世界の分け隔てられなさ(=irrational)」に繋がっている。それは、何者であるか(=doing)が常に求められる現代社会における、祈りにほかならない。

以上、つらつらと語りうることを書き記してきたが、知念大地の芸を知るためには、その語り得ぬ部分を知ること、すなわち、知念が作り出すその瞬間の「場」に参加するしかない。ぜひ、知念の身体とともに、その「場」を目撃して欲しい。



参考文献
Merleau-Ponty, M.(1964), L’OEIL ET L’ESPRIT. Paris: Editions Gallimard.(=富松保文訳,(2015),『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』武蔵野美術大学出版局.)


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