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不機嫌の効用

時々、どうしても起きられない朝がある。いくら起きようと頑張ってみても、心が拒絶するのだ。「起きたくない」というよりは、「起きる」「起きない」という意志がどうしても湧かない。そんな日は何もせずに一日が終わるという焦燥感に駆られながら、インスタを眺め、Twitterを眺め、ニューススアプリを眺める。挙句の果てには漫画アプリを読み出す。大体怖いやつか、エロいやつである。オナニーも3、4回はする。そうこうしているうちに日は陰り始めて、私はとうとう本当に一日が終わってしまうという焦燥感から、ベッドから転げ落ちるようにしてヨタヨタと床にへたばる。まるで夏に置きっぱなしにした、いたみかけのなすびのようである。なすびは床にへたばりついても、まだ名残惜しそうにヘタの方ーーまあつまりなんだ上半身のことだなーーをベッドに乗せておる。そのお布団への執着といったら並大抵のものでなく、ずり落ちるときにスウェットの裾が引っかかってシーツと顎の間に挟まり乳首まで丸出しといった具合である。おまけに下半身は半ケツと来てとても人間とは言えない。茄子だ。茄子はごろごろ転がるようにしてシャワールームへと向かう。水分の抜け切ってシワシワになったこの体をふやかしてつるつるのフワフワにする必要がある。シャワールームに着いてもまだ転がっている。仰向けのまま、もぞもぞと体をくねらせて寝衣を脱ぐ。そしてカランを捻る。じゃばー。顔面に大量の水粒が降り注ぐ。鼻に入ってゲホゴホとする。誰も助けてはくれない。

風呂から上がりタオルで拭いているとだんだん不機嫌になってくる。私はこんなに惨めなのに、誰も助けてくれない。あんまりだと思う。そうだ。おれが何をしたって言うんだ。おれが今まで犯した最大の罪といえばせいぜい小学校のころ「一緒に帰ろ」と誘ってくれた幼馴染のしおりちゃんに「っせーな女子は女子でつるんでろよぉ」とイキったくらいのことで(あれは本当によくなかった。四十近い今でも毎晩布団の中でフラッシュバックしている)一応ちゃんと仕事もしているし、毎朝歯も磨いてるし、オナニーは日に三回までと決めていてたまにしか破らないし、人前では奇声をあげたり鼻をほじったりもしないようにしていて、どこから見ても社会性に満ち溢れた好人物である。なのにこの仕打ちはなんだ。人をなすびみたいにしやがって。そこまで思って起きてから何も食べていないことに気づいた。なるほど原因はこれに違いない。

茜色の西日に染まったキッチンで、リンツのチョコレートクッキーをバリボリと口に流し込む。袋ごとである。今日初めてのカロリーを口にして思ったことはこうだ。おれは不機嫌な自分が好きだ。それどころか不機嫌になりたくてこの茶番をやっている可能性すらある。不機嫌はいい。おれは不機嫌なとき、誰にも気を遣わず不機嫌そのものである。人間というもの、世渡りは齢を追うごと上手くなるものだ。そしてそれほどに自分のことを忘れる。根が筋金入りの恥ずかしがり屋で重度の人見知りである私も、今では初対面者しかいない飲み会で、スマートにおちんちんの話をして楽しく場を和ませ皆のワインが並々注がれているか十分に気を配りながら優雅に大皿のサラダを取り分けるというウルトラCを容易く出来るようになった。おれは一体いつからそんな曲芸みたいなことに精を出すようになったのだろう?きっと自分が寂しい人生を送ってきたからだ。寂しい人間はそういう場で輪に入れず一人つまらなそうにしている人間を見るのがたまらなく辛いのだ。ひょっとしたら一人でウヰスキーをちびちびやっている人間を無理やり輪に引き込むのも立派なありがた迷惑かもしれないけれども、翻って自分の過去を鑑みるに、やっぱりそういう人がいて自分に関心を持ってくれたたときなんだかんだ嬉しかったからなぁ。

そんなわけで今おれは最高に不機嫌をエンジョイしている。チョコレートクッキーは皿になど盛らず、首にタオルを掛け濡れたまま荒々しく袋ごと飲むようにいただく。トイレの扉は足で蹴り飛ばすように開け、もちろん立ったまま「に゛ゃあーーーーッ゛‼︎‼︎‼︎」と奇声を上げつつ放尿をする。そしてスピーカーから爆音でボンジョヴィを流しつつ、昨日から放置されていた皿にシンクが泡まみれになるくらい洗剤をたんまり掛けて洗う。もちろん水は出しっぱなしだ。私にだって水を出しっぱなしにするくらいの権利はある。誰にも文句は言わせない。絶対にだ。

「私は一体何と戦っているのだろう?」ふと我に帰って呟く。多分反動的な資本家かよれよれのジャージを着た体育教師か、日本会議かトランプ政権か、ワクチンを作る製薬会社の陰謀か、イルミナティ的なそういうやつか、とにかくものすごく悪くて巨大な何かだと思う。ところでおれは今一体何を言っているのだろう?自分でも分からなくなってきた。でもこれだけは言える。きっと私はいつだってとてつもなく大きくてまるで歯の立ちそうもない恐ろしく巨大なアリクイとかにヤケクソで特攻し、一矢報いたいただそれだけなのだ。

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