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引退する山中浩史のこと。

 山中浩史。東京ヤクルトスワローズ”元”投手。俗に言う「サブマリン」。プロ野球には数人しかいない、地面スレスレからボールを投げ込むアンダースローの投手が、来季の戦力構想から外れ、11月16日に引退を表明した。通算勝利数はプロ在籍8年で17勝。決して素晴らしいとか凄いと言える数字ではない。しかし、彼は引退に際して「やりきった」とコメントしていた。何故山中はそう言い切れるのだろうか。

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 平凡な投手がプロ野球の世界へ

 山中は学生時代、甲子園にも出場し、地元九州の大学リーグではエースにもなった。その後実業団「Honda熊本」に所属し、東京ドームの都市対抗や日本代表として国際試合も経験した。華やかな球歴ではある。しかし、プロでは通用するはずのない選手であった。

 なにせ山中のボールは130km/hにすらなかなか届かない。アマチュア球界でも遅いスピードである。事実、早い者は2年目でドラフトにかかる社会人野球を彼は5年間続けている。そんな山中であったが、福岡ソフトバンクホークスが2012年のドラフト会議で6位で指名する。おそらく「うまくはまれば儲けもの」ぐらいの考えであったことは、育成を除くと最下位指名であるところに現れている。

 なにはともあれ、山中浩史、27歳。遅咲きのプロ野球選手の誕生である。

 しかし、現実は甘くはない。1年目、主にリリーフとして30イニング弱の登板で防御率は5.52。2年目は1軍での登板はほぼ無いまま、シーズン途中に東京ヤクルトスワローズへとトレードに出される。

 このトレードは、当時のスワローズの編成担当者が山中と同じアンダースローの元投手宮本賢治、ピッチングコーチが現監督でサイドハンドの高津臣吾であった偶然もあり、スワローズ側の希望で実現したとのことだが、さておき、この出来事が山中の立場を大きく変える。

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 突然の開花と苦悩

 トレード翌年の2015年。6月に先発候補の一人と期待され一軍に登録されると、初戦でプロ初勝利を挙げる。そこからプロ初完封も含む破竹の6連勝。スピードこそ相変わらずであったものの、高津コーチとの出会いが山中の球質を劇的に向上させ、一躍"花形"ともいえる先発投手陣に名を連ねたのである。しかも、この活躍がチームの行方を大きく左右し、優勝まで果たしてしまう。

 この時、山中は何を思ったか。

 変則投法という"一点突破"に賭けてプロ入りしたものの、芳しい結果の出ない日々から、一気に期待の星に。

 「目標だった牧田さんと投げあえることに喜びを感じた。」2015年、初勝利の時の言葉は、どこか夢見心地な青年のそれだった。しかし、翌年の試合後のヒーローインタビューでは、試合が山中の地元熊本が震災に見舞われた直後だったこともあり、こんな言葉を残している。

 「ひとつでも多くの光を与えられればいいと思っている。」

 山中は本当の意味でプロ野球選手になった。戦力として計算され、人々に夢や希望を与える立派なプロ野球選手に。そう感じた。

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 しかし、そんな山中にまたもプロの壁が立ちはだかる。下から浮き上がってくるという他のピッチャーとは真逆の軌道を描く山中の投げるボールに、徐々にバッターが順応し始めたのだ。

 2016年、前年と同じく6勝したものの12敗を喫した山中は、さらに翌2017年には2勝に留まり、一軍と二軍を行ったり来たりする日々が始まる。

 しかし、前述のとおりスピードが遅く、投球術で勝負をしてきた投手だ。目に見えて衰えを感じられるわけでもない。実際、今年も8月の中日戦では勝ち星こそつかなかったものの8回を無失点に抑えている。

 だからこそ、戦力外が発表された時、いや、今でも「まだやれる」「先発ローテーションの谷間でなら十分戦力になる」「育たない若手よりましなのに何故切るのか」という声も聞かれるし、僕自身もそう思っていた。なのに本人は「やりきった」と言っている。しかも、引退後は一般企業への就職を希望しているという。

 何故だ。


山中浩史は何と戦っていたのか。

 僕の疑問を解くカギになる言葉が、このサンスポの記事にあった。

 「日々何かに追い詰められて、自信を得たり勇気をもらったり、悔しかったり…。その度に自分を奮い立たせるということの繰り返しでした。それでも、得るものの方が1000倍以上の価値があったからこそ、ここまで続けてこられたと思います。」

 山中を追い詰めたものはなんだったのだろうか。クビになることへの恐怖か。27歳でプロに入る時点で、その程度の腹の括り方ではないだろう。

 山中が戦っていたのは、プロで主力に"なってしまった"自分自身ではなかっただろうか。別のインタビューで彼は「プロのユニフォームを着れたことが誇り」と言っていた。つまり山中にとって、プロに入ったことがゴールだったのだ。

 「プロになる奴は学生時代から違う。」「ああいう奴がプロに行くんだなと思った。」よく語られるプロ野球選手の先天的な能力に関するエピソード。一方で「プロ野球選手になれてしまった」者も少なからずいる。その多くが殻を破れずに、或いはプロになれたことに満足してしまい、人知れず球界を去る。山中もそうなるはずだった。そしてそれでも満足なはずだった。

 しかし山中は、高津コーチの指導によって「おそらく数年前には想像もしていなかった高い次元に身を置くチャンス」を掴んだ。その時に、山中はゴールだったはずのプロ野球界で、その場にへたり込むのではなく、美しく立ち、そして周りにいる「エースになる」とか「タイトルを獲る」といった、山中から見れば遥か遠くのゴールを目指す「プロになるべくしてなった者たち」と並んでも恥ずかしくない姿でいようともがいていたのではないか。

 これは僕の先輩のツイートだが、「偉大なる普通の人」…山中を評するにピッタリの言葉だなと思う。その「普通の人」が負けじと歯を食いしばり挑戦する姿に僕らは心を揺さぶられていたのかもしれない。


山中浩史に幸あれ

 山中を熱心に応援していたファンに聞いた話では、彼は自主トレでもキャンプでも、若手に負けないくらいの走り込みをしていたそうだ。

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 とにかくやれることは全てやる。そして、やり切った自信がある。だからこそ、悔い無く別の世界へ飛び立つことができる。

 いくつかの偶然や、周りの人々との出会いによって生きてきたプロの世界。だからこそ「お疲れさん」と肩に手を置かれた時が、自分の辞め時だと思っていたのだろう。そして、その時がいつ訪れてもいいようにと努力していた。

 自分で自分を追い詰める日々からの解放。ならば僕も「まだやれる。まだ見たい。」の思いを封印して、旅立ちを見送ろうと思う。

 高津臣吾によってプロ野球選手に仕立て上げられた男が、高津臣吾の下でプロ野球界を去る。

 山中のこの先の人生に幸多からんことを祈る。


[追記]本文中の写真は、山中投手のファン「ヤクルト漬けのこめ(@kome_ys0000)」さん撮影の物をご厚意でお借りしました。


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