「歴女」と呼ばれたあの頃のモヤモヤを噛み砕く
ふと10年前を思い出した。
歴史を学び始め、どんどん日本史にのめり込んでいった中学校1年生の頃、
当時の流行りもあってか周りからよく言われたのは「歴女なんだね」という言葉だった。
正直、嬉しさよりも嫌悪の感情が強かった。何故かよく分からなかったが、歴女と呼ばれることに強い違和感を覚えていた。
そして今。大学では教育学部の中で、日本史を専攻して卒論も書いた。あの頃とは違う角度であるが、当時の出来事を思い出してはモヤモヤしている。
何故だろうかと考えてみる。今となれば、当時の私の歴史に関する認識と周囲の認識にズレが生じていたように思う。これを詳しく、二つの視点から考察してみよう。
歴史に隠れたジェンダーギャップ
まず先に思い浮かんだ視点は「ジェンダー」。苗ぷろ。等々で色々と探索し続けた視点ではあるので私としては考えやすい視点だ。
大学に入り、歴史学を専攻するなかで真っ先に思ったことは「女性がいない」ことだ。配属になった日本中世史ゼミでは、大学2年生当時ゼミ生は私以外男性。指導教員と私だけが女性という異様な空間にいた。また、いくつか論文を読む中でもその著者は圧倒的に男性が多かった。たまに女性らしき名前を見つけると「あ、女性の方だ」と意識するほどだ。(ただ、体感ジェンダー関係の研究であるとかなりその割合は上がる。)
また、今度は学校の歴史の教科書を思い出してほしい。既に指摘があるように、登場する人物のほとんどが男性である。小学校6年時に学習する歴史上の人物42人(学習指導要領より)のうち、女性は卑弥呼、紫式部、清少納言の3人である。現存する資料(史料)の記述量の関係で特定の歴史上の女性に焦点を当てることが難しいことは分かるが、あまりに偏っているのではないか。
義務教育を含む学校の中で、無意識下で「歴史=男性のもの」という認識が育っているように思う。その中で無意識のうちに女性を排除した結果、歴史が好きな女性を特別な地位にカテゴライズしているように感じる。
当時の私はそのような歴史の男性的な側面をよく理解していなかった。そのために周囲の反応に納得がいかなかったのではないか。
「歴史好き」は真面目?
当時「歴史が好き」と伝えた時、「頭いいもんね(納得のニュアンス)」という反応も多かったことを思い出した。
確かに(当時は)クラスの中で「頭がいい」「真面目」な分類にいた。でも、純粋に歴史に魅力を感じ探求している自分にとってはこの反応は不思議なものであったし、大好きなものと頭の良さとを結び付けられることが辛かった。
何かの分野に長けていたり、好きな分野がある時、たまたまそれが教育課程内で評価される分野である時に「優秀」とみなされるのではないかと感じる。ただ私が思うに、歴史が好きでも料理が得意でもどちらに優劣があるわけではないし、それが偏差値(というか学力的な優秀さ?)と結びつくかどうかなんて関係ない。「優劣は関係ない」という私の立場と、周囲「〇〇ができるのは優秀」という声とのギャップがとても苦しいと感じる。
今更
10年前の「歴女」には、主に2つのモヤモヤの根が潜んでいた気がする。私自身、今更こんなことを深く考えてどうするんだと思った。ただ当時のモヤモヤを噛み砕いて、ひたすら考えることで救われるあの頃の自分がいるのではないかと思う。
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