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スリランカ 1983年

スリランカの1983年のビザと1984年のビザになります。 

当時は、工事関係でスリランカで仕事をしていて、時差が3時間30分もあり、電話での連絡もとても高いので、まだ、海外FAXもなく、テレックスが文章での連絡手段でした。 テレックスは一文字幾らになるので、テレックスイングリッシュと言う文字数の少ない英語を利用して連絡をします。 システムとしてはタイプライターのような機械で文字を打つと長細い紙に穴が開きます。 それをテレックスに通すと日本のテレックスに紙が打ち出され、それを読み取り機にかけると、英文が出てくると言う、まぁ、電信の少し進んだような装置です。 

当時はテレックスイングリッシュ用の辞書もあり、便利だと思いましたが、今のメールを考えると隔絶の感がありますね。 

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若かった頃の自分とその後の自分を見比べても、あまり変わりがないぐらい、馬鹿ですね。 

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スリランカのネゴンボと言う場所の海岸。 茶色のはトパーズの粉が砂になっているからです。 

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事務所の女の子。 

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事務所にハエがいたので、新聞を丸めてハエを叩いたら、まるで人殺しを見るような目で見られました。 スリランカでは仏教徒はハエもネズミも殺しません。 ネズミの駆除はキリスト教徒かモスリムの仕事だと言う事です。 それだけ、仏教徒は古い仏教になるのでしょう。 黄色い袈裟をきた托鉢のお坊さんをよく見ます。 

この時は空港の仕事でしたが、その後、国会議事堂のケータリングの仕事でもスリランカに滞在しました。

1985年の話になります。 

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スリランカの国会議事堂での仕事なので、国会議事堂への入構証の写真です。 

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国会議事堂の近くから。 

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国会議事堂の中。 

バンダラナイケ国際空港はここ。 

国会議事堂はここ。 

その後も、スリランカとのかかわりは深く、何度も仕事で訪れました。 

爆弾テロが激しくて、Curfewと言う夜間外出禁止令を受けたのもスリランカです。 ラジオで放送が入ると、時間までに家に戻るか、戻れない場合、近所のホテルへ泊まるしかありませんでした。 

大統領官邸の前の道を歩いている時に、トラックが大統領官邸へ突っ込み、銃撃戦が始まって慌てて逃げたのも、良い?思い出です。

大統領官邸の場所はここ。 

コロンボ灯台の近くに小さな中華屋があり、食べに行く途中で、襲撃に出くわしました。 

それでも、戦時国のイラクで仕事をしていたと思えば、スリランカは良い国です。 年がら年中、空襲警報で逃げる必要もありませんし、子供でさえ拳銃を手にいられるイラクよりはマシですね。 

安全の基準が戦争中のイラクと言うのもなにか間違っているかもしれませんが、イラクに比べればスリランカも危なくはありませんし、中国に至っては天国と言えるほど、スリ、コソ泥、ぼったくりはあっても、命に係わる危険は少なくて安全です。 

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