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科学と科学が発達する環境について

自由落下の法則

重いものと軽いものはどちらが先に落下するか

みなさん、クイズです。
全く同じ形をした軽いものと重いものはどちらが先に落ちるでしょうか?

私の教師体験では、この疑問に対して学生の中で一番多い回答は、「重いもの」でした。では、はたしてその回答は正しいでしょうか?

例えば、重いものが、軽いものより早く落ちるということを仮定します。
次に、重いものと軽いものを重さのないヒモでつないだらどうなるでしょうか?

仮定に従えば、重いものが早く落ちようとします。しかし、よりゆっくりと落ちようとする軽いものがブレーキをかけることになります。そうすると、重いものの落下速度と軽いものの落下速度の中間の速度でこの2つをつないだものが落下することになります。

しかしよく考えると、重いものと軽いものをつないだものは、もとの重いものよりも軽いものだけ重いのものです。だから2つを繋いだものは、もとの重いもの以上の速度で落下しなければいけない、という相反する2つの結論が出てくることになります。

このような相互に矛盾する結論が出るのは、なぜでしょうか?

それは結局、最初の仮定が間違っていたからです。つまり、重いものと軽いものは違う速度で落ちると仮定したことに間違いがあって、この間違いが、相反する2つの結論を導き出していたのです。つまり、どちらも同じ速度で落下するというのが正しかったのです。


ピサの斜塔

この論理的な矛盾に気が付いたのが、中世イタリアの天文学者であったガリレオです。ガリレオは、空気抵抗の作用を考えて、同型の重い球と軽い球をピサの斜塔から落下させる実験をして、どちらも同じ時間で落ちることを通じてそれを確かめたのだ、といったお話しが残っています。(実際にはガリレオの弟子によって作られた装置で実験が行われて、自由落下の法則が確かめられたようです。)

ガリレオが暮らしていた、中世ヨーロッパでの人々は、空気抵抗の作用などを含めた、日常的、経験的、感覚的にものを見ていて、そう思っていたんでしょうね。

軽い羽を落としたら、羽は舞ってゆっくり落ちるし、重い石は、ストンとおちますからね。でも羽よりも軽い石ならどうなるんだろう、なんて考えなかったのかと、ちょっと気になるところでもあります。

いや、むしろ、質量と落下の関係などは深く考える必要に迫られなかったのかも知れません。

しかし、自由落下の法則の実験がおこなわれてから、400年立っていながら、今の青年たちはそれを知らない人が多数派だった、という事実は、今日の教育のあり方について、大きな問題の存在を感じさせることがらです。

子供のころ筋肉マンを見ていて、崖から落下中のロビンマスクが重い鎧を脱ぐと落下スピードを減らせるというのを見たときの、とっても軽いショック(まあ、漫画だからね)を思い出す光景が何度も何度もありました。

科学は批判

私たちの日常的な常識やこれまで獲得されてきた既存の認識をより現実に近づけるのが科学です。新しく生まれる科学は、世間の常識を超えたり、それに反していたりするわけです。科学はこれまでの考え方の欠陥や一面性をとらえ、より現実に沿った新しい認識を生み出すものです。

だから、科学は批判です。

批判というと、批判する相手をけなし、攻撃するといった意味だと感じる人も多いようです。講義の中でもそういう質問がありました。

しかし、科学は、これまでの認識が何を明らかにしたかを肯定的にとらえ、同時にその認識の限界を越えて、新たな認識の一部として新たな認識の要素(モメント)として、活かすものです。

コペルニクスやガリレオは、以前の人々が太陽や月や星が地上を動いていると主張する考え(天動説)に反対し、それは見かけだけであって、地球が回転しているからそう見えるに過ぎないことを、発見します(地動説)。

これも、これまでの常識を覆しながら、みんなが見ていたのはまやかしだということではなく、ある座標からみればそう見えるということで、同時にそれを肯定しているわけですね。

科学の発達を阻む環境

しかし彼らの発見は当時の常識とは大いに異なるものでした。

この大発見は屈託なく社会から称賛されるものではなく、下手をすれば神に反するもの(異端)として宗教裁判にかけられ、大きな弾圧が加えられる可能性を持っていました。ガリレオにもこの弾圧が待っていました。

当時のヨーロッパの封建的社会関係の権威の中心であった、ローマ・カトリックがキリスト教社会の世界観に基づいて、当時の常識と社会的利害関係の中で、ガリレオを宗教裁判(異端審問)にかけたのです。

なぜ、ローマ・カトリックは、科学者の発見を攻撃しなければならなかったのでしょうか?

こういうことだと思います。

なぜなら、地球が回転しているとは聖書のどこにも書いていません。ガリレオの主張が真理だと認められれば、聖書に少なくても一つの欠陥があるということになります。神の書に欠陥があるはずがありません。もしもあるとすれば、それは不完全な書になりますから、神の書でないことになりかねません。ローマ・カトリックが人々に信じさせている、神の存在そのものが疑わしくなってしまいます。

お坊さん達は神の名のもとに信者から集めている宗教税を取れなくなってしまい、豪華な聖堂を作ることも、豊かに暮らすことも困難になってしまいます。

だから、神の書にそんな欠陥はあってはならないのです。そうすると、ガリレオの主張は誤りでなければならないし、誤りでないと主張するなら、ガリレオを神の敵として抹殺しなければならなくなるわけです。

こんな経緯で、宗教裁判にかけられたガリレオは、自分の説が誤りであるということを認め、火炙りになるのを回避したのでした。

350年たった1992年に、ローマ・カトリックも地動説を認め、ガリレオに謝罪しています。でも、350年前に地動説が認められていたら、人間が月に到着できたのは何世紀も早くなっていたかもしれない、と言われます。

科学の発達に必要な環境

誰が真理を発見できるかわかりません。誰もがその可能性を持っています。だから、発見された科学を早く、広く共有できる環境が科学を最も発達させる環境だといえます。個々人の発見可能性を高めるための各自が自由に学び研究できる環境(学問の自由)と意見を言える環境(言論の自由)こそが、科学を発達させるもっとも効率的な環境だということになります。

意見が違うから、自分の利害に反するからと、この自由を侵すのは非科学的行為です。少し前、どこかの国でもそういうことがありましたね。多様な意見に対して寛容であることが、初学者の態度としてあるべき姿です。この寛容さが科学を広げ発達させることになります。

特定の考え方、特定の行動だけを認めるのは、反科学的行為です。自分の好きなことだけ、居心地のいい意見だけにふれて満足するのではなく、色んな意見を知りましょう。また、自分の常識をそれが本当に正しいことか検証しましょう。ついでにいうと、私の講義は、世間の平均的見解とは随分違うものになるでしょう。寛容に受け止めていただくようにお願いします。

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