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雑な満足で、欲望を繰り越す

そのとき食べたいと思ったものを食べる喜びというのはそりゃあ何にも変えがたいほどのもので、毎日毎食食べたいものを食べたいように食べる暮らしがかりに実現できたとしたら、どんなに嬉しいことだろうかと思わないこともない。

ただ、現実はなかなかそう簡単ではない。
食べたいものがいつでもどこでも手に入るわけではないし(過去どの時代に比べても我々はこの点において恵まれた環境下にあるとは思うけれど)、自分が何を食べたいのかを詳しく検討するゆとりがいついかなるときと十分与えられているとも限らない。
時と場合によっては、自分が何を食べたいのか、いくら考えても心身にたずねてもわからないこともある。
現実問題、いついかなるときも食べたいものを食べる喜びを目一杯味わうというのは、相当難しい。

他の人がどうか知らないが、僕はその瞬間自分がほしがっているものを探し当てることに、ついつい執心を燃やしがちだ。
自分が何を欲しているのか、本心のところで何をしたがっているのか。
それは丁寧に目を凝らせば見えてくることもある。
しかしいくら考えてもピンとこないこともある。
その違いが何に起因するのかを詳しく考えることはここではしないけれど、とにかくそんなふうに時によってブレみたいなものが生じるのは確かだ。

ほしいものが一向にわからないとき、いったいどうしたらいいんだろう?
答えがなかなか見つからないとき、僕は「探し方が足りていないだけだ」と自分を追い込むことに躍起になることがしばしばだった。
でもそれで答えが見つからないことも往々にしてある。
自分を追い込むことがそれほどうまいやり方じゃないとしたら、ほしいものが見つからない事態に、いったいどう対処したらいいんだろう?


なにぶん食べるのが好きだから、すぐ食事の話を引き合いに出してしまうのだけれど、僕らは毎回の食事に際して、ひたすら同じものを選んで食べるということはあまりしないと思う。
昼にカレーを食べたなら、だいたい夜はカレーではない何かを食べるだろう(作り置きがどうこうみたいなことは言ってはいけない)。
あるいは、食事の量などに関しても、直近の食事の内容に鑑みて調整をはたらかせるのが自然だと思う。
昼に少し食べすぎたと感じたら夜は少し食事を減らすだろうし、逆も然りと言っていいと思う。

つまりここで言いたいのは、欲望というのは、過去にどのように処理されてきたかに依存しながら、そのときどきで形を変えて僕らの前に現れるものだろう、ということだ。
欲望は瞬間瞬間で脈絡なく姿を変えて絶えず唐突に表出するのではなく、ある種の連続性をもって姿形や強弱を変遷させているのではないか、ということだ。

カレーを食べて、辛いものを食べたい欲が満たされたら、「いったん辛いもの以外の何かを食べたい」というふうに気が向くのは自然なことだろう(もちろん辛味フリークの人を否定するつもりはない)。
次に何を欲するかは、直前までに何をどう欲し、そのうちどの部分がどれだけ満たされたかによってある程度決定づけられる部分があると思う。
逆に言えば、今この瞬間抱いている欲望をどう扱うかによって、近い未来の自分が抱く欲望の姿形がある程度左右される。
そうだとすれば、たとえ今この瞬間に100点満点のかたちで自分を満たせなかったとしても、近い未来にいわば負債のようなかたちで、その果たせなかった欲望は再びなんらかの姿形をとって僕の前に現れるのではないか。

今満たしきれない欲望は、次のチャンスに思いっきり満たせばいい。
(ごく単純なイメージだが)負債の上乗せを得てより大きく膨れ上がった欲望は、より大きなエネルギーとなり、満たされたときの喜びもより大きなものとなる。
だとすれば、たとえ瞬間瞬間に自分を100点満点のかたちで満たせなかったとしても、必ずしもそれを悔やんだり憂いたりする必要もないだろう。
たまったものを返せるときに思いっきり叩き返す、その喜びの種を仕込んでいると思って、不満足に甘んじた自分を都合よく正当化すればいいのだ。


食べたいものが、いくら考えてもわからない。
そんなときはたぶん、適当に山盛りの白米を胃袋に詰め込んで、目の前の欲望をぞんざいに処理すればいいのだ。
それで満たしきれなかったものは、近い将来の自分がうまくアレンジしてよしなに満たしてくれる。
今この瞬間ほしいものがわからないからといって、むやみに嘆き悲しんだりする必要はたぶんないのだ。

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