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欲望を集めて、でっけえ矢をつくりたいかもしれない

かもしれない。


     *


今やすっかりインターネット上で多くの人に知られることとなっている(たぶん)プロ奢ラレヤー(通称ぷろおご)という人物がいる。
彼はもうかれこれ5年くらい「人に奢られることを生業にする」という生き方を継続していて、彼にご飯やら何やらを奢る人間は今になっても後を絶たないわけだが、当然のこと彼はそんな生き方をできるくらいには勤勉かつ賢い人間であり、日々あらゆる方面に思考と試行を展開して活動の維持・拡大に努めている。
本人にそんなことを言うとたぶん「おれは全然怠惰だし賢くもないよ(笑)」みたいな返事しか返ってこないんだけど。

ちなみにぼくも彼には2回ほどご飯やらコーヒーやらを奢ったことがあります。
今回の記事の本筋とは関係ないのでいったん読み飛ばしてもらってかまわない。


ぷろおごという人間のすごさを語ろうと思ったら、たぶん100通りじゃ収まらないくらい多様な切り口が考えられるように思うんだけれど、一つぼくが思っているのは、「多様な欲望をうまく糾合してよくできたシステムを構築している」点で彼はすごいと言えるのではないか、ということだ。
よく彼は「構造が大事だ」とか「コンボが決まると気持ちいい」とかといったことを言っているのだけど、ぷろおごはやはりそれをきっちりと実践しているんだと思う。
ただ適当に「メシ奢れ」とインターネットの片隅で叫んでいるだけだったら、さすがにあそこまでの結果を出すまでにはいたっていないだろう。

ところで、ここから本筋に入るにあたって、個人的に最近テーマにしていることを述べたい。
それは「自分の欲望をきちんと直視し、できるだけ叶えていく」ということだ。
己とまっすぐ向き合って、自分がそのときそのとき何を欲しているのかを見定め、それを現在自分が選択しうる方法で可能な限り叶えていくこと。
これが最近の僕の生活におけるテーマだ。

このテーマを据えるまで、僕は一言でいえば退屈していた。
2年弱ほど前に企業勤めをやめ、いわゆる無職の期間を経て、その後なんとかフリーランス的な何かとして食い扶持を確保するところまでやってこられたわけだが、ストレスフリーでそれなりにゆとりのある生活を手にしたあとで感じていたのは、持て余したエネルギーをどこにぶつけていいかわからないというモヤモヤとした気持ちだった。
自分がこれから何をしていっていいかわからない、何を求めているのかわからない……そういう気持ちがつねに小さな重石のように心をかすかに重くしていた。

いったい足りていないのは何なのだろう?
そんな問いが煮詰まった結果として得られたのは(最終的な回答は、親しい友人や尊敬できる先達から与えられるかたちでもたらされた)、「自らの欲望に向き合う経験があまりに足りていないのではないか」という仮説だった。
他人からの嘲笑や非難から身を守るため、本当にほしいものに対して目をつぶり、周りからの印象の悪くなさそうな無難なものを「ほしい」と思い込んでは追い求めてきた……それが自分のこれまでのあり方だったのではないか、と。
自ら納得できる程度には安全で安定的な生活を手にした今、次のステップに進もうと思うのであれば(進まずにはいられないくらいにはもどかしい気持ちだった)、長らく手つかずだったその扉に手を伸ばさないわけにいかないのではないかとようやく思ったのが、今からおよそ2ヶ月前だった。

いろんな手を使って自らの欲望と向き合う日々が続いている。
ずいぶんしんどい場面もあったけれど、新鮮な発見も多く、基本的にはとても楽しい。
これからもまだまだ自分の心身と向き合う日々は続くだろうと思う。
やってもやっても終わらない気づきの連続が、そこには確かにある。

ただ、「それだけで本当にいいんだろうか?」という疑問が、ここにきて他方で湧き上がりつつあるのだ。

今この瞬間の自分の心身と向き合い、その欲望を適切に満たしていく。
その刹那的な実践も、それはそれとして大切なことだと思う。もっともっと自分自身を知っていくという意味においても。
ただ、それは一つ一つの断片として、散発的に扱いつづけるだけで本当にいいものなんだろうか?
欲望の適切な満足を果たしていくという効果の面から言っても、そのやり方は果たして最もパフォーマンスのいい方法と言えるのだろうか?

何かを食べたいと思ったら、それを手に入れて食べる。
体を動かしたいと思ったら、そのときしたい運動をする。
人と話したいと思ったら、誰かに連絡をとって話をする。
じっくりものを考えたいと思ったら、静かに落ち着ける場所で考える。
Aという欲求に対しては、A’という方法をぶつけ、Bという欲求には、またB'を。

このような、一対一の対応を逐一処理するやり方は、はっきり言って無駄も多いしあまりうまくないのではないか、と思いつつあるのだ。

たとえば、欲求を適切に満たすことというのは、何かしらの実入りをもたらしてくれる(煩雑になるので詳しくは書かないけれど、心から食べたいものを毎食食べる生活は健康をもたらしてくれると強く実感している)。
けれども、一対一の対応を処理することに絶えず追われている状態では、この実入りは大したものにならない。
実入りを大きくすればいいというものでもないとは思うけれど、十分な収穫が得られるかどうかがつねに相当疑わしい状態というのはやはり気持ちのいいものではない。
できれば欲求はつねにきちんと満たしていきたい……たとえばAプランで臨んでアテが外れたときには、次善のBプランやCプランでカバーを図っていくといったかたちで(それはあくまで簡単な一例だけれど)。

そういった観点、あるいは他の観点から言っても、欲望のかたちが浮き彫りになってきたら、今度は「散らばった欲求を糾合すること」が大切なのではないかと、僕は思うようになったのだ。

プロ奢ラレヤーはその観点で言っても、本当にうまい生き方をしているように思う。
たとえば、彼は「ご飯を食べたい」「屋根の下で眠りたい」「人と話をしたい」といった複数の欲求を、「奢られる」という一つの手段によって同時に解決している。
また、たとえば「SNSで発信をする」「動画サイトなどで生配信を行う」といった欲望充足(これもまたなんらかの欲求にドライブされていないわけはないだろう)を、「奢られる」という別の欲望充足手段の拡大に還元するというように、さまざまな欲望ないしその充足の手段を相互に結び合わせることで、それぞれの実入りを大きくすることにも成功している。
一つ一つの欲求充足をそれだけで完結させることなく、相互に結び合わせて構造的なシステムをつくり上げ、それを絶えずアップデートさせることで、ますます人生を豊かで喜ばしいものへと磨き上げているという点で、彼はきわめて熟練した「欲望のエキスパート」だと思う。

欲望というのは一つこれといった決まった形をもっているわけではなく、たえず形を変え、さまざまな姿で僕らの前に現れる。
ぷろおごに限らず、人生を本当の意味で謳歌している人たちというのは、自分の変幻自在な欲望についてよく知っているだけでなく、それを効率よく活用して大きな実入りを得ることのできるシステムのようなものを自らの中に確立しているのではないか。
ただ自分の欲望に素直なだけではないというか、「欲望に素直」のレベルが段違いなのだ。
欲望の充足にしのぎを削るあまり、ありとあらゆる道具をとっかえひっかえ組み合わせて、美しいまでの精緻な機構をつくり上げてしまう……彼らがやっているのはそんなことなんじゃないかと思う。


     *


僕なんて言ってみれば欲望のペーペーだから、ここで述べてきたような理解がどれだけ現実を正しく捉えているのかさえもよくわからない。
ただ、これからもっともっと人生を充実したものにしていこうと思ったら、一つ一つの欲求を断片として散らばったままにしていてはいけないのではないか、という予感は強くある。
バラバラになったものを一つに束ねて、大きく力強い矢のように仕立て上げていけたら。
そしてその矢でいつか、何か大きくて硬い殻のようなものをブチ破っていくことができたら、と思っている。かもしれない。

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