布花・紙花ちまいもん

岐阜県岐阜市に暮らし、普段はインハウスプロダクトデザイナーとして仕事をしています。趣味…

布花・紙花ちまいもん

岐阜県岐阜市に暮らし、普段はインハウスプロダクトデザイナーとして仕事をしています。趣味として始めた布花コサージュづくりについてお伝えするとともに、クリエイティブのこと、仕事のこと、子育てのことなど女性デザイナーとして思う事を伝えていきたいと思います。

マガジン

  • ハンドメイドの話

    2013年にゆるゆると趣味として始めたハンドメイドの道のりを紹介していきます。

  • 昭和生まれ平成育ち。そして令和がやってきた。

    気付いたら年号が3個目の人生。 中年も板についてきた私が、昔話から現代までの話をするやつ。

  • 女性が働くということ

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布花に関するZINEを作りました

趣味として布花を初めて10年。世を忍ぶ姿(言ってみたかっただけ)はインハウスデザイナー。 時々作る作品を販売しているわけでもない。しかも、同じものを沢山作るのは(性分的に)とても苦手な私。 そんな私がZINEを作ることにしました。 ZINEを作る大きなきっかけ私がZINEを作ることにしたのは、「こたまご」さんからの影響が大いにあります。 秋田に関するイラストを描き、zineを作る作家「こたまご」さん。軽やかに次々にイベントに参加し、自分の好きを広げ続けています。 とある

    • 雨の季節に思い出す、進学校のオシャレで厳しい数学の先生の話

      高校の時にお世話になった数学の先生は、とてもおしゃれな方だった。 いつもシックな色合いのスーツを身に纏い、そこへとても似合うネクタイを合わせていて、 その先生のカラーコーディネートにいたく感心した。 もしかしたら、奥さんが毎日のカラーコーディネートをしているかもしれないな、と当時よく考えていた。 ありきたりな黒のスーツだったり、グレーのスーツではなく、 深いモスグリーンの色だったり、ブラウンの落ち着いた色だったり、とても本当に素敵な スーツを着て授業をする先生だった。 お

      • 個人面談をしてくれた先生のおもひでをお手紙調に綴る

        先生、お元気ですか。 もう先生のお名前も顔も綺麗さっぱり忘れてしまいましたが、進路希望の面談のことはよく覚えています。 進路希望に関する面談をした時、「愛知県立芸術大学のみ」と答えた私のことを鼻で笑いましたね。 その態度に、今後先生には決して絶対頼らない。と、謎の決意をした事をよく覚えています。 第3希望まで書かなければいけなかったと思うのに、果たして私は他になんと書いたんでしょう…白紙だったのかな。(とんがった当時の私ならやりかねない) それにしても、多感な高校生の進

        • 普通科に通う高校生が、芸大を目指した裏で起こっていたこと

          今回は、私が芸大受験をしたことによって母校で起こったちょっとした現象を紹介していきます。 美術室を溜まり場にしていた仮面美術部男子と、芸大志望の私美術の授業すらなかった私の高校。なぜか美術室はありました。 石膏像は数体ありましたが、別に誰もデッサンはしていませんでした。 美術部も一応ありましたが、放課後に美術室に行くと男子が麻雀をしていたり、漫画を読んでいたり。簡単に言うと家に帰りたくない生徒がたむろしている場所でした。 芸大志望の手前、他の部活に入るわけにもいかなかっ

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        • ハンドメイドの話
          4本
        • 昭和生まれ平成育ち。そして令和がやってきた。
          8本
        • 女性が働くということ
          4本

        記事

          普通科に通う高校生が、芸大を目指すためにやったこと(その3)

          なんだか、前回の記事がたくさんの方に見られているなぁと思ったら受験シーズンですものね。 20年も前の話が役に立つかは謎ですが、誰かをクスリとさせれたら嬉しいと思いつつ続きを。 未経験、普通科高校生が美大合格を目指してやったこととにかく、周りの人を観察しまくる このままではダメだと早々に思った私は、高評価を叩き出す人の近くで授業を受けることにしました。 同じ課題をこなしながら、浪人生に張り付いてノウハウを学ぶことに注力。例えば、デッサンで言えば影の付け方や鉛筆の使い方、

          普通科に通う高校生が、芸大を目指すためにやったこと(その3)

          普通科に通う高校生が、芸大を目指すためにやったこと(その2)

          いざ行かん、河合塾千種校ついに、高校3年生になった私は、毎週日曜日に河合塾美術研究所に通い始めました。 東海3県の芸大美大を目指す高校生や浪人生が集まり、一日中絵を描いたり立体作品を作る日曜専科コース。 朝の9時半から夕方6時までみっちりと作品を作りました。 私にとっては、創作にどっぷりと浸かる時間を得る初めての経験でした。 裕福ではなかった我が家にとっては、かなりの出費だっただろうと今では思います。 ありがとう、両親。 ▼前回のお話はこちらから 人生初の自分の作品

          普通科に通う高校生が、芸大を目指すためにやったこと(その2)

          普通科に通う高校生が、芸大を目指すためにやったこと(その1)

          あらすじ芸大志望だったのに、センター試験のために進学校に進学してしまった私。 入学初日から盛大に居心地の悪さを感じてしまいました。 そしてある種絶望にも似たような、もやもやの高校生活を送っていました。 とはいえ、私の目標は「芸大に行く」こと。 流石にこのままではダメだ!と思い、受験対策を考えました。 河合塾美術研究所名古屋校高校一年生の時に説明会へ参加してみる 私は当時、愛知県の尾張地区にある岩倉市に住んでいました。 名古屋駅から電車で20分弱のベッドタウンなので利便

          普通科に通う高校生が、芸大を目指すためにやったこと(その1)

          子供が救急搬送されたけど無事だった話

          2023年夏の日曜日の夜。 ナッツを炒っていたら、おチビさまが「食べてみたい!」と一言。 4歳だし、歯も生えそろっている。 大きなアレルギーも無いし、小さい粒だったので「どうぞ」と食べさせた。 感想を聞くと「美味しい!」との事で良かった良かった。 この当時、私のうろ覚えの知識では3歳以下の子どもにナッツを与えてはいけないというものでした。 今回、この記事を書くにあたり、改めて調べ直すと消費者庁が注意喚起をしていました。 が、しかし。 しばらくすると「喉が痛い」と言い始

          子供が救急搬送されたけど無事だった話

          芸大志望がいわゆる進学校に進学して、初日から大いに場違いを感じた話

          ※1990年代後半の話なので、現在とはかなり違う点があると思いますがご了承ください。 前の記事に書いたように、私は芸術大学に行きたくて近くの高校に進学しました。 ▼詳しくはこちらの記事をご覧ください。 私の高校の決め手は至って簡単でした。 志望大学が公立だったため、センター試験を受ける必要がありました。 塾に通うような金銭的な余裕がなかった家計を鑑みて、「ここなら必要な学力カバーができるだろう」という理由で選択しました。 割と早い段階で、この高校の進学を後悔したのです

          芸大志望がいわゆる進学校に進学して、初日から大いに場違いを感じた話

          私が中学生で公立芸術大学を目指すことになった話

          私の親はジュエリーデザイナーでありクラフトマン親の職業の影響で、小学校の高学年の頃からクリエイターと呼ばれる人たちが身近な存在である環境で生活をしていました。 彼らは作家やクラフトマンと名乗っていて、ガラス細工や陶芸、木工など手仕事を生業とされている方ばかりでした。 その当時、今のようなインターネット環境はなく、クラフトマンたちはデパートや百貨店、ギャラリーと呼ばれる場所で展示即売会を行っていました。 私の親も例外ではなく、年に数回個展やグループ展を行っていて、それが主な収

          私が中学生で公立芸術大学を目指すことになった話

          人生100年(かもしれない)を見据えて、コーチングを受けてみた話

          母親業も3年。ふとよぎる「この生活はいつまで続くのか」という考え 子どもを産んで3年を過ぎたあたりから「自分の次のステップ」について漠然と考えるようになりました。 毎朝5時半に起き、7時過ぎに子どもを起こし、朝食をとって子どもを園に送り、その足で職場へ。定時までしっかり働き、園にお迎えに行き夕食・入浴、寝かしつけという名の寝落ち。 あんなに不安まみれだった、子育てと仕事の両立も今では板についたものです。 毎晩10時には寝落ちしてしまい、朝は5時半に起きる生活。 とても健康

          人生100年(かもしれない)を見据えて、コーチングを受けてみた話

          エヴァと私の長いお付き合いの話

          テレビアニメを初めて観た時、私は主人公たちと同じ14歳だった。 観たことも聞いたことも無い各種設定に、厨二病の私にはツボしか無かった。 芸大を目指し始めてマンガ・アニメが後ろめたかったあの頃、こっそり家でイラストを描きまくったし、残酷な天使のテーゼはカラオケでよく歌った。 件の25話と26話を観た後、意味不明過ぎて心に傷を負った。し、旧劇場版を観ても何にも分からなかった。(ここら辺は記憶が曖昧) 大人になって結婚し、それなりにデザインの仕事をしていた頃。 職場の後輩に「

          エヴァと私の長いお付き合いの話

          産後半年での仕事復帰と託児の話

          普通は産後どれくらいで、仕事復帰を考えるのでしょうか? 私は子どもを授かった時、産後1年で復帰しようと思っていました。 何となく、産前から希望の託児先は決めていたわが家。たまたま近所に子ども園があり、そこに預けたいなと思っていました。 私が産後すぐまだ入院していた時。 出生届など役所まわりをこなしていた旦那殿が、ついでにと市役所に保育先について問い合わせていました。(早い!) すると、わが子は2月生まれということもあり、1歳からの託児では定員いっぱいで入れない可能性が高

          産後半年での仕事復帰と託児の話

          26歳で結婚した私が、36歳で出産するまでの話。キャリアと出産の天秤についてとアドバイス

          仕事が楽しくなり始める20代後半と出産適齢期の天秤私の場合、大学卒業22歳。結婚は26歳でした。 漠然と、学生の頃は「30歳になったら結婚できればいいな、結婚できてから子どもを持つことについて考えられればいいな」と思っていました。なので、自分の中では26歳での結婚は思ったよりも早かったなという感じでした。 旦那も私も仕事の面ではまだまだ経験が浅く、これからどんどんキャリアを積んでいきたいと考え、それぞれ仕事に打ち込んでいました。 しかし、社会人になると同時に耳に入る情報の

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          ちょっとした備忘録。仕事に対する私の基本方針について。

          タイのバンコクが好き過ぎて。 タイで作られている車に乗り、バックミラーにタイの花飾り(プアンマーライ;พวงมาลัย)を飾っている。しかも二代目。三代目まで買ってある。 今日はグラニフで買った、お気に入りの「けんかはよせ」Tシャツを着て会社に行った。 レキシや岡崎体育の音楽を聞いてニヤリとしたり、子どもを車に乗せながら、椎名林檎を堂々と聞いている。し、椎名林檎になりたいと10代の頃から今でも考えている。 ふざけるときは真剣にふざけたいし、普段から飄々と過ごしていると

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          会社にとって未婚女性を雇うことは、リスクなのか。仕事をしながら結婚を選ぶこと。

          人生は何があるか分からない私は、26歳のときに結婚をしました。当時社会人4年目。デザイナーとして「新人」と呼ばれる枠をはみ出し、少しずつ仕事も任されるようになり徐々に仕事の幅も広がり、仕事にやりがいが見えてきた頃です。 旦那に出会うまで、自分は結婚するとしても30歳以降であろうと思っていました。デザイナーという(当時)残業が常態化している職種のため、誰かと一緒に暮らしたり、ましてや人生を共にするなど全く想像できていませんでした。 しかし、ひょんなきっかけで旦那と出会い意気

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