三郎猫

 客人は水を飲んでいる。銀の皿にうすく張られた水をペチャペチャと飲んでいる。客人は飼い猫の三郎であった。
「はぁ、こんなおいしい水をありがとうごぜぇます、ありがとうごぜぇます」
三郎はぺこぺこと頭をさげて言った。はげて薄汚れた頭がちらりと見えて、なんだか申し訳ない気持ちになる。水道水なのだ。蛇口をひねれば出てくる水を、老猫は涙をこぼしながら飲んでいる。そのけなげさに冴子は少しさびしくなってしまった。


 三日前のこと。冴子は長年つきあっていた彼に別れを告げた。浮気されていたのだ。今思いだしても怒りや悲しみが交互におしよせてきて、胸が張りはけそうになる。
自宅のアパートについた冴子は玄関の戸をあけると、拾い猫の三郎が二足歩行で冴子を出迎えた。
「へぇ、おかえりなさいませ」
「ただい…」
言いかけて冴子はぎょっとした。おどろいて三郎を凝視すると、彼は照れくさそうに頭をかいてみせた。
「なにかオラの顔についておりますでしょうか」
しっぽをうねうねと前後させている。かわいらしい。が、それが問題ではない。冴子は三郎にたずねた。
「どうしてお前は二本の足で立って、人のように話しているのよ」
冴子の問いに三郎はあたふたとしながら
「申し訳ありません」
とうとつに謝罪の言葉をかえす。なにやら事情があるようだ。三郎は許しをこうような目をむけて言った。
「じ、実は冴子さまの赤い果実を食べてしまったのです」
「………赤い果実?」
冴子は思わず眉をひそめる。思いあたるふしがないのだ。三郎はしょんぼりとしっぽを垂らしていた。
「へぇ、テーブルの上にあった赤くてまんまるな実でございます
それがあまりにもよい香りをはなっていたものですから、オラ…ついつい」
「食べてしまったのね」
冴子は静かに息をはき、やんわりと三郎をなでてやる。三郎はひたとうつむきながら
「左様でございます」
今にも消えいりそうな声で答えた。猫はよく気まぐれ者だと言われるが、我が飼い猫はなんと真摯であることだろう。冴子はなかば感動すらおぼえていた。が、三郎が物言い、二本足で歩くようになったいわれをまだ聞いたわけではない。冴子は先をうながした。
「それから?赤くてまんまるな実を食べた後にどうなったというの?」
「…こうなってしまったのでございます」
三郎は涙ぐみながら冴子のふところに身をよせた。嗚咽までもが人らしい。彼は小刻みに体をふるわせて言った。
「オラはもう…ここにはいられません」
「なぜ?」
冴子が問うと三郎はさらに小さな声になって答えた。
「今やオラは猫ではありません」
「猫の姿をしてるじゃないの」
「物言う猫は猫ではございません、だって気味が悪いとお思いになるでしょう?」
「そんなこと…」
一瞬言葉につまってしまった。さきほど、三郎の出迎えにおどろいたのは事実である。
「ペットに言葉はいらないのです」
三郎は悲しげにわらって見せた。彼がいたずらに赤い果実を食べてしまったことがすべての元凶であるのは言うまでもない。が、あまりにも不憫である。そのうえ、冴子は失恋の傷を負ったばかりで少なからずセンチメンタルであった。三郎に自分から離れていってほしくなかった。彼女は一つ、妙案を思いついた。
「客人になればいいのよ」
「……客人?」
三郎はこはくの目をきょとんとさせている。一方、冴子は自らの提案に満足気であった。
「どうして……」
「お前が客人になればここにいられるじゃないの」
ようは三郎の立場がペットでなくなればいい、というだけの話である。冴子の言葉がはなたれて間もなく、三郎はひしと彼女に抱きついた。
「あ、ありがとうごぜぇます
オラ…どう感謝したらいいんだか…」
泣き上戸な猫は大粒の涙をぽろぽろと落とす。
「そんな……感謝だなんて…」
冴子は三郎の背中をやさしくさすってやる。灰と茶のまざった渋色の背中である。その夜、まんまるな月がほっこりと空を照らしていた。月は黄色く、あたたかな光をはなっていた。


「わぁ」
三郎は感嘆の声をあげる。
「猫マンマじゃあないですか」
ご飯にかつお節をまぶしたそれをはぐはぐとたいらげた。白いひげのさきっぽに、ご飯つぶをつけているのがなんとも愛らしい。
「スープもあるのよ」
冴子はだしのきいたスープをさしだした。薄味じたてのスープである。魚の身や細かく刻まれた煮干しがたっぷりと入っていた。
「おいしそうでございますね」
三郎は一口すするとあっ、と言ってあわてて舌をだした。客人はまだ猫舌であった。三郎はすぐさま水を口へと流しこみ、ふぅと息をついた。二人の夕食はおごそかに続く。三郎の食事はもはやキャットフードではなかった。
「もとに戻りたいとは思わないの?」
ふいに投げかけられた冴子の問いに、三郎は一瞬とまどいを見せた。口へと運びかけていた皿をコトリとテーブルに置く。冴子は続けた。
「だってこのままじゃ困るじゃないの、色々と」
三郎はじっと皿を見据えた後、もごもごと口を動かし始めた。滑舌が悪く、聞きとりづらい。
「も、もちろん思っております
思ってはいるのですが、その……どうしたらよいかわからないのです」
申し訳なさそうな声をあげる。冴子は小さく息をはきながら
「まぁ…そうよね」
三郎と共にうなだれていた。どうにかしてやらなければいけないが、どうにもやりようがないのが現状である。
「時間が戻ればいいのですが…」
三郎がふともらしたつぶやきに冴子の耳はぴくりと反応した。身をのりだし
「それよ!」
いきおいよく両手でテーブルを打つ。三郎はぽかんとしながら
「へ…へぇ」
あいまいに相槌を打った。白い八重歯がちらりとのぞく。冴子は
「時間はまわるものだと思うの
だからまわってしまった時間を少しだけもどせばいいのよ、きっと」
確信めいた口調で、三郎に説き始めた。
「だって地球はまわっているでしょう?
地球は私たちをのせているわ
つまりは私たちの中に流れている時間をものせてまわっているということなのよ」
「はぁ…」
「だから時間はまわるものだと思うのよ」
理屈のような理屈ではないような。三郎は頭の中をぐるぐるとかきまわされたような気分になった。不思議である。
「何かしら…何かしら根拠があるのでございますね」
三郎は乞うようにして尋ねた。冴子は三郎の小さな背中をぽんとたたき
「ないわ
だけどね……自信はあるのよ、なぜか」
口の端を上げてにっこりと微笑む。
「さ、左様でございますか」
三郎はふわふわとした小さな胸の内に、たらりと冷や汗がながれたような気がした。
「さてはじめましょうか」
冴子は壁の時計をそっとはずしにかかる。
「時を戻す準備を……」
三日前の夜、三郎は赤い果実を食べてしまった。そして人のふるまいを手に入れ、同時になんともいうことのできない不安もよびよせた。三郎は本来、猫であるべきものである。否、猫でなければならない。
冴子は時計のねじをゆっくりとまきもどす。三郎はじっと冴子の手元を見まもっていた。細く頼りない指が、慎重にことをはこんでゆく。短い秒針が六回まわったころ、冴子は三郎に目蓋をとじるよう言い、また彼女もその通りにした。ふいに秒針の刻む音がとぎれ、あたりに静寂の空気がながれはじめる。自らの存在を問われるような、そんな空気であった。
 三郎は頭の芯がかーっと熱くなってゆくのを感じた。苦しさのあまり、意識がとぎれそうになる。瞬間、三郎の脳裏によこぎるものがあった。赤い果実、忌まわしき実である。相も変わらずよい香りを放ち、三郎の嗅覚を刺激する。三郎を負の道へといざなった甘い香りであった。そこには三郎でない三郎がいて、再び赤い果実へと手を伸ばそうとしていた。もうどうにもすることができない。運命をうけいれようと三郎が涙をこぼしたその時、
「何をやっているのよ」
なかばあきれ気味の冴子の声が頭の中でひびいた。
「お前の目の前には、何もないじゃないの」
ふと気づけば、さきほどまで三郎の瞳にうつっていたものはなく、そこには冴子の優しい笑顔だけがあった。
「さぁお休みなさい」
やんわりと頭をなでられて、三郎はほっと安堵する。背中を丸め、目を細め、ゆるりと眠りへと落ちていった。三郎は客人であった自分に別れを告げる。温かい、心地のよい何かにかれたような気がした。
冴子はあくびをもらした後、ぼんやりと三郎をながめた。三郎はすやすやと寝息をたてている。彼女は床に落ちていた時計を壁へと戻し、テーブルに置かれていた食器をキッチンへと片した。
冴子は透明なグラスに水を注ぎ、くいっと飲みほした。じんわりとのどが満たされてゆく。窓からは燦然とかがやきがさしこんでいた。カーテンを閉めると、三郎の耳がぴくりと反応した。
「お前は私の猫なのよ」
冴子は三郎を愛しげに見つめ、やんわりとなでてやる。三郎はただ首をあげて、にゃあと鳴くだけであった。〈終〉

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